収穫のひー、か収穫されたひーなのか(労働のひ)
力なき状態で通勤電車に乗って疲弊。
微妙にラッシュ前で、座れるだろうと当て込んでいるから、座れないと負荷高くなる感。
労働開始、まぁ普通に時間が過ぎていったが、徐々に徐々にキリストに気を取られてゆく。
子に父の資質がすべて示されている、だとか
子の他に父がなんであるかを知るものはいない、とか キリストの輝かしいイメージや情景を見て感じていた。
旧約のヤハウェよりキリストの方に神性が示されており、キリストを通して、神がなんたるものかを神が示そうとしている・・・
旧約のヤハウェのイメージは台無しだ。
あんなん神じゃねぇ。
福音書のイエスも、若干仕方のないことだが、(素晴らしい)人性に包まれてしまっている
おそらく福音書関係なしに、対面(仰ぎ見)してイメージする〈キリスト〉に神性がどんどん示され、開示されてゆく(キリスト信仰に入ったものには)(いや、でもだいぶ年月経ってるぞ?何となくイエスのことも信じてみて。旧約のヤハウェの方が、強烈な浄福とともに信じることは容易かった(これが莫迦かどうかは置いておいて)。ずっと福音書のイエスのイメージがイエスには付きまとっていて、何なのかよく分からなかったのだ。今も福音書のイエスと(死後の)〈キリスト〉のイメージが全然違う。シュタイナーの補助線が混じってきて、ここ数ヶ月で新しく内面に生じて来たことだ。いや、でもイメージや体感の内では、真性なキリストなのよ。文字にすると自分の内でも疑義が出てくるけど。
そして、その神性真っ只中のキリストに余すところ無く神性が開示されているところを見ると(見ているとしよう)あのヤハウェはほとんど嘘で、我々には想像も出来ないような何者かが、父としての神として、キリストのふちの後ろに空無さとして、イメージすら困難なものとして、表裏しているような感じか?キリストに神性を示し、自らは何ものでもなさ、、、?
子としての神は示されるが、父としての神は示されない(「子の他に父を知るものなし」)。神がふたつ並ぶことになるから。
そして、キリストが創造神自体であるのかどうか、三位一体が何なのかどうか、キリストが子にして父であるのかはまだ分からない。
子なる神、的な感覚は分かったが。)
救いも大勢の前に晒されれば、それは攻撃であるということ。迫害は人間として当然。〈なぜ、オマエラが〉
パウロ「いっときの苦難で計り知れない栄光を」の感じ
富は天に積めと言った時の眼と力
アダムが第一の人間で、キリストがわれわれの第二のケイタイとしてあらわれたということ
彼らが言っていた「神の子となる資格を与えられたのです」と言っていたことが麗句ではなく真に迫っていそうであるということ。
天国的なものがあるとして、キリストの前に晒されたら自分を恥ずかしく思うであろうということ。
無償で血を流させたことに思い至りわれわれの方ではそれを何も返せないということ。
世界がどうなろうともキリスト信仰は諸個人を救い続けるであろうということ。(文にすると下劣さや、分化の匂いがするがそれでも素晴らしいものであるということ)
そして明日もゼロから掴まなければいけないのかもしれないということ。未熟さやまーだ確信が足りないのか、無い時には信仰がそもそも無いということなのか、(信仰が〈ある〉ならそれは強烈なものであろう)
いつまでも残るものは、(実に伴われている)信仰(の内にはチカラがある)希望(はその時実現されている)、愛(は当然のようにその人間を活かすように流れている(それが人への愛か、神的なものに一致している心地よさに留まっているのかは状況によって異なるだろう))
もういいや。