「レヴィナス 無起源からの思考」斎藤慶典

ホームレスの姿を見ても痛くも痒くもないのであれば、私は心安らかにその前を通り過ぎることができたのに、実際にはそうではないところに、先の少年少女たちと私が置かれた状況の本質的一致がある。

そこに私も彼らも何かを見てしまったのであり、この見てしまったことの中には、私に行為を(すなわち「あなたに向かって」を)余儀なくさせるある種の「命令」がすでに含まれているのだ。
これをレヴィナスはあるところで、「物乞いであり、悲惨であり、命令」と表現した。そして、このようにして見られ・出会われてしまった「何ものか」こそ、「私が殺したいと欲しうる唯一のもの」だとすら言う。この「何ものか」こそ、他人にして他者なのだ。


非人称の「在る」というこの表現に、実詞=主語=主体を結びつけることはできない。「在る」は本質的な無名性なのだ。……一切の事物と自我の消滅は、消滅しえないものへと、
「存在」という事実そのものへと立ち戻らせる。この事実に人は否応なしに、いかなる自発性もなしに、無名のものとして融け込んでしまう。「存在」は、誰に属するということもないが普遍的で、「存在」を斥ける否定がいかに累乗されようとそのつど否定の只中に回帰する力の場のごときもの、重苦しい気配のようなものとして「在り」つづける。
(さしあたって、この、不可能性へと辿り着くこともない不可能性、弱さ、意識と孤独、何ものでもない、わたし未然の、恐怖と問いが産まれてくるところの、探しものの、倦怠より以後の、あるいは開かれなくて済むという、わたしで居られる保証でもある、解決へと進み到れば解というものが手放されてしまうもの、が、ただ、人間の、人間という、コベツセイやそれ以前の、巡る、問い)


この「覚醒」に、「欲望」あるいは「愛」という言葉を与えたのはレヴィナスである。そしてそれは、「顔」という仕方で訪れるというのだ。「顔」の到来とともに「覚醒」が訪れる。すなわち(これもその言葉の強い意味での)「主体」が誕生する。
(ほぇ~)
(だからといって、〈顔〉を再現すればいいっていう話じゃないだろうけど)


わ〜い!😄