見出し画像

論語と算盤⑦算盤と権利: 5.合理的の経営

現代における事業界の傾向をみるに、まま悪徳重役なる者が出でて、多数株主より委託された資産を、あたかも自己専有のもののごとく心得、これを自儘に運用して私利を営まんとする者がある。それがため、会社の内部は一つの伏魔殿と化し去り、公私の区別もなく秘密的行動が盛んに行なわれるようになって行く。真に事業界のために痛嘆すべき現象ではあるまいか。
 元来、商業は政治などに比較すれば、かえって機密などということなしに経営して行かれる筈のものであろうと思う。ただ銀行においては、事業の性質として幾分秘密を守らねばならぬことがある。例えば、誰に何ほどの貸付があるとか、それに対してどういう抵当が入っているとかいうことは、徳義上これを秘密にしておかねばならぬことであろう。また一般商売上のことにても、如何に正直を主とせねばならぬとはいえ、この品物は何ほどで買い取ったものだが、今これこれに売るからいくらの利益のあるというようなことを、わざわざ世間へ触れまわす必要もあるまい。要するに、不当なることさえないならば、それが道徳上必ずしも不都合の行為となるものではあるまいと思う。しかし、これらのこと以外において、現在有るものを無いといい、無いものを有るというがごとき、純然たる嘘をつくのは断じて宜しくない。ゆえに正直正銘の商売には、機密というようなことは、まず無いものとみて宜しかろう。しかるに社会の実際に徴すれば、会社において無くてもよい筈の秘密があったり、有るべからざる所に私事の行なわれるのは、如何なる理由であろうか。余はこれを重役にその人を得ざるの結果と、断定するに躊躇せぬのである。
 しからばこの禍根は、重役に適任者を得さえすれば、自ずから絶滅するものであるか。適材を適所に使うということは、なかなか容易のものではなく、現在にても重役としての技倆に欠けた人で、その職にあるものが少なくない。例えば、会社の取締役もしくは監査役などの名を買わんがために、消閑の手段として名を連ねている。いわゆる虚栄的重役なるものがある。かれらの浅薄なる考えは厭うべきものだけれども、その希望の小さいだけに、差したる罪悪を逞しゅうするというような心配はない。それからまた好人物だけれども、その代わり事業経営の手腕の無いものがある。そういう人が重役となっていれば、部下にいる人物の善悪を識別するの能力もなく、帳簿を査閲する眼識もない。ために、知らず識らずの間に部下の者に愆まられ、自分から作った罪でなくとも、竟に救うべからざる窮地に陥らねばならぬことがある。これは前者に比すると、やや罪は重いが、しかしいずれも重役として故意に悪事をなした者でないことは明らかである。しかるに、それら二人の者よりさらに一歩進んで、その会社を利用して自己の栄達を計る踏み台にしようとか、利慾を図る機関にしようとかいう考えをもって、重役となる者がある。かくのごときは、実に宥すべからざる罪悪であるが、それらの者の手段としては、株式の相場を釣り上げておかぬと都合が悪いと言って、実際は有りもせぬ利益を有るように見せかけ、虚偽の配当を行なったり、また事実払い込まない株金を払い込んだように装いて、株主の眼を瞞着しようとする者なぞもあるが、これらのやり方は明らかに詐欺の行為である。しかして彼らの悪手段はいまだそれくらいにては尽きない。その極端なる者に至りては、会社の金を流用して投機をやったり、自己の事業に投じたりする者もある。これでは最早窃盗と択ぶ所がない。畢竟するにこの種の悪事も、結局その局に当たる者が、道徳の修養を欠けるよりして起こる弊害で、もしもその重役が誠心誠意事業に忠実であるならば、そんな間違いは作りたくも造れるものでない。
 自分は常に事業の経営に任じては、その仕事が国家に必要であって、また道理に合するようにして行きたいと心掛けて来た。たとえその事業が微々たるものであろうとも、自分の利益は小額であるとしても、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで事に任じ
られる。ゆえに余は論語をもって商売上の「バイブル」となし、孔子の道以外には一歩も出まいと努めて来た。それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心していた。福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い。著者は常に自己のことよりも、国家社会を利するという観念をもって、筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理に外ならぬもので、多く社会を益することでなくては、正径な事業とは言われない。仮に一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならば、どんなものであろうか。如何にその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに、国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。

本節では、当時の産業界の問題点とその解決策について論じています。渋沢先生は、一部の悪徳経営者が自己利益のために株主の資産を不正に使用し、企業を私物化している現状に警鐘を鳴らしています。商業は基本的に秘密主義を必要としませんが、一部の銀行業務などでは秘密保持が重要だと指摘しています。また、適切な人材が重役に就くことの重要性を強調し、道徳的に堕落した重役による不正行為は、企業倫理と社会的責任の欠如から生じると指摘しています。

渋沢先生は、事業の成功は社会全体の利益に寄与すべきであり、個人の利益追求だけではなく、より大きな社会的利益を目指すべきだと主張しています。

現代の経営にもつながる考え方ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?