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論語と算盤②立志と学問: 5.自ら箸を取れ

青年のうちには、大いに仕事したいが頼みに行く人がないとか、援(ひい)てくれる人がないとか見てくれる人がないとか嘆(かこ)つ者がある。なるほどいかなる俊傑でも、その才気胆略(さいきたんりゃく、物事を巧みに処理する能力を持ち、大胆で知略のあるさま)を見出す先輩なり世間なりがなかったなら、その手腕を施すによしないことだ。そこで有力な先輩に知己を持つとか、親類に有力な人があるとかいう青年は、その器量を認められる機会が多いから、比較的僥倖(ぎょうこう、偶然得る幸せ)かもしれぬけれども、それは普通以下の人の話で、もしその人に手腕があり、優れたる頭脳があれば、たとい早くから有力な知己親類がなくても、世間が閑却してはいない。由来現今の世の中には人が多い。官途にも会社にも乃至(ないし)銀行にも、すこぶる人が余ってるくらいだ。しかし先輩がこれならといって安心して任せられる人物は少ない。だから、どこでも優良なる人物なら、いくらでも欲しがっている。かくお膳立てをして待ってるのだが、これを食べるか否かは箸を取る人の如何にあるので、御馳走の献立をした上に、それを養ってやるほど先輩や世の中というものは暇でない。かの木下藤吉郎は匹夫(ひっぷ、身分の低い男)から起こって関白という大きな御馳走を食べた。けれど彼は信長に養って貰ったのではない。自分で箸を取って食べたのである。何か一(ひ)と仕事しようとする者は、自分で箸を取らなければ駄目である。
誰が仕事を与えるにしても、経験のない若い人に、初めから重い仕事を授けるものではない。藤吉郎の大人物をもってしても、初めて信長に仕えた時は、草履取というつまらぬ仕事をさせられた。乃公は高等の教育を受けたのに、小僧同様に算盤を弾かせたり、帳面をつけさせたりするのは馬鹿馬鹿しい。先輩なんていうものは人物経済を知らぬものだなどと、不平をいう人もあるが、これはすこぶるもっともでない、なるほど一廉の人物につまらぬ仕事をさせるのは、人物経済上からみてすこぶる不利益の話だが、先輩がこの不利益をあえてする意思には、そこに大なる理由がある。決して馬鹿にした仕向けではない。その理由は暫く先輩の意中に任せて、青年はただその与えられた仕事を専念にやって往かなければならぬ。
その与えられた仕事に不平を鳴らして、往ってしまう人は勿論駄目だが、つまらぬ仕事だと軽蔑して、力を入れぬ人もまた駄目だ。およそどんな些細な仕事でも、それは大きな仕事の一小部分で、これが満足にできなければ、遂に結末がつかぬことになる。時計の小さい針や、小さい輪が怠けて働かなかったら、大きな針が止まらなければならぬように、何百万円の銀行でも、厘銭(りんせん)の計算が違うと、その日の帳尻がつかぬものだ。若い中には気が大きくて、小さいことを見ると、何のこれしきなと軽蔑する癖があるが、それがその時限りで済むものならまだしも、後日の大問題を惹起することがないとも限られぬ。よし後日の大問題にならぬまでも、小事を粗末にするような粗大な人では、所詮大事を成功させることはできない。水戸の光圀公が壁書の中に「小なることは分別せよ、大なることは驚くべからず」と認(したた)めておかれたが、独り商業といわず軍略といわず、何事にもこの考えでなくてはならぬ。
古語に「千里の道も跬歩(きほ)よりす」といってある。たとい自分はモット大きなことをする人間だと自信していても、その大きなことは片々たる小さなことの集積したものであるから、どんな場合をも軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意をこめてその一事を完全にし遂げようとしなければならぬ。秀吉が信長から重用された経験も正にこれであった。草履取の仕事を大切に勤め、一部の兵を托された時は、一部将の任を完全にしていたから、そこに信長が感心して、遂に破格の抜擢を受け、柴田や丹羽と肩を並べる身分になったのである。ゆえに受付なり帳付なり、与えられた仕事にその時の全生命をかけて真面目にやり得ぬ者は、いわゆる功名利達の運を開くことはできない。

仕事の大小にかかわらず、その本質を見極め真面目に丁寧に行うことですね。肝に銘じたいと思います。

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