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論語と算盤①処世と信条: 10.蟹穴主義が肝要

私の処世の方針としては、今日まで忠恕(ちゅうじょ、自分の良心に忠実であることと他人に対する思いやりが深いこと)一貫の思想でやり通した。古来、宗教家、道徳家というような人に碩学鴻儒(せきがくこうじゅ、学問をきわめた大学者のたとえ)がたくさん輩出して、道を教え法を立てたけれども、畢竟(ひっきょう、つまるところ)それは修身(しゅうしん、身を修めること)事に尽きておるだろうと思う。その修身も廻りくどく言えばむずかしいが、解りやすくいえば、箸の上げ下ろしの間の注意にも、充分その意義が含まれているだろうと思われる。私はその意味において、家族に対しても、客に対しても、その他手紙を見るにも、何を見るにも誠意をもってしておる。

孔子はこの意味を「公門に入るに、鞠躬(きっきゅう、身をかがめおそれつつしむこと)如たり。いれられざるが如くす。立つに門に中せず。行くに閾(しきみ)を踏まず。位を過ぐれば、色、勃如(ぼつじょ)たり、足、躩如(かくじょ)たり。その言うこと、足らざる者に似たり。斉(し)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るに、鞠躬如たり。気を屏(おさ)めて息せざる者に似たり。出でて一等を降れば、顔色を逞(はな)って怡怡如たり。階を没(つく)せば、趨(はし)り進こと翼如たり。その位に復(かえ)れば踧踖如(しゅくせきじょ)たり。」の中に遺憾なく説いておられる。

また、享礼(きょうれい)、聘招(へいしょう)、衣服、起臥(きが)についても諄々(じゅんじゅん、よく分かるように丁寧に言い聞かせるさま)と説かれ、食物の段に至って、「食は精(しらげ)きを厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)して餲(あい)せると魚の餒(あさ)れて肉の敗れたるは食わず。色の悪きは食わず。臭いの悪しきは食らわず。飪(じん)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。其の醤 (しょう)を得ざれば食らわず。」云々と言っておられる。

これらはごく卑近な例だが、道徳や倫理はこれら卑近の裡に籠(こも)っておるのであろうと思う。

箸の上げ下ろしの注意ができれば、次に心掛くべきは自分を知るということである。世の中には随分自分の力を過信して非望を起こす人もあるが、あまり進むことばかり知って、分を守ることを知らぬと、とんだ間違いを惹き起こすことがある。私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢の分を守るということを心掛けておる。これでも今から十年ばかり前に、ぜひ大蔵大臣になってくれだの、また日本銀行の総裁になってくれだのという交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずる所があって、実業界に穴を掘って這入ったのであるから、今さらその穴を這い出すこともできないと思って固く辞してしまった。孔子は、「もって進むべくんば進みもって止まるべんくば止まり、もって退くべんくば退く」と言っておられるが、実際人はその出処進退が大切である。しかしながら分に安んずるからといって、進取の気象を忘れてしまっては何にもならぬ。業もし成らずんば死すとも還らずとか、大功は細瑾(さいきん、欠点のこと)を顧みずとか、男子ひとたび意を決す。すべからく乾坤一擲(けんこんいってき)の快挙を試むべしなどいうが、その間にも必ずおのれが分を忘れてはならぬ。

孔子は「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」といわれたが、つまり、分に安んじて進むのがよかろうと思う。

次に青年の最も注意すべきことは、喜怒哀楽である。特に青年のみならず、およそ人間が処世の道を誤るのは、主として七情の発作宜しきを得ざるがためで、孔子も「関雎(かんしょ)は楽しみて淫(いん)せず、哀しみて傷(やぶ)らず」といって、深く喜怒哀楽の調節の必要なることを述べておられる。私どもも酒を飲めば遊びもしたが、淫せず傷らずということを常に限度としていた。これを要するに、私の主義は誠意誠心、何事も誠をもって律すると言うより外、何物もないのである。

本節では、普段から良心と思いやりを忘れず、誰にでも分け隔てなく誠意を持って接することが大切であり、道徳や倫理は身近なところにこそある、と説いています。日常の挨拶や衣食住や起床就寝で気をつけることは度を過ぎないことであり、腐りかけていたり悪いものを無理に身体に入れないことを説いていて、そのような日常の些細な気遣いが精神と身体の健康につながることをおっしゃっているのだと思います。

また、それらの習慣が身に付いたら次は己を知ること、カニは自分の大きさにあわせて穴を掘るというように身の程を知るというのが大切である、さらに特に若者が気をつけるべきは喜怒哀楽の調整で、怒りにまかせて発言や行動するのは慎むようにと説いています。

仕事の成果も健康的な身体も日々の穏やかな生活の先にあるものなので、身の程をわきまえ、心落ち着かせて精進していきたいと思います。



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