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論語と算盤⑧実業と士道: 9.かくのごとき誤解あり

由来競争は何物にも伴うもので、その最も激烈を極むるものは競馬とか、競漕とかいう場合である。その他朝起きるにも競争がある。読書するにも競争がある。また、徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにも、それぞれ競争がある。けれども、これら後の方のものにおいては、あまり激烈なものは認めない。しかるに競馬、競漕となると、命を懸けても構わないというほどになる。自己の財産を増すについてもこれと同様で、激烈なる競争の念を起こし、彼よりもわれに財産の多からんことを欲する。その極、道義の観念も打ち忘れて、いわゆる目的のためには手段を択ばぬというようにもなる。すなわち同僚を誤り、他人を毀ち、あるいは大いに自己を腐敗する。古語に、「富をなせば仁ならず」というのも、畢竟そういう所から出た言葉であろう。アリストートルは、「すべての商売は罪悪なり」と言っているそうであるが、それはまだ人文の開けぬ時代のことで、如何に大哲学者の申し分とあっても、真面目には受け取れない。しかし孟子も、「富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず」と言っているから、等しく味わうべき言葉である。
 思うに、かくのごとく道理を誤るようになったのは、一般の習慣のしからしめた結果といわなければならぬ。元和元年に大坂方が亡び、徳川家康が天下を統一し、武を偃せてまたこれを須いない時代となって以来、政治の方針は一に孔子教より出ておったようである。その以前、支那あるいは西洋に相当の接触もしたのであるが、たまたま「ゼシュイット」教徒が、日本に対して恐るべき企てを持っているかに見えたことがあった。あるいは宗教によって国を取るのを、その趣意としておるなどという書面が、和蘭から来たというようなことから、海外との接触を全く絶って、僅か、長崎の一局部においてのみこれを許し、内は全く武力を もってこれを守り治めた。しかして、その武力をもって治める人の遵奉したのは、実に孔子教であった。修身、斉家、治国、平天下の調子で治めるというのが、幕府の方針であった。ゆえに武士たる者はいわゆる仁義孝悌忠信の道を修めた。そうして仁義道徳をもって人を治める者は、生産利殖などに関係する者でない。すなわち、「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」を事実において行ったのである。人を治める方は消費者であるから、生産には従事しない。生産利殖のことをするのは、人を治め、人を教うる者の職分に反するものとして、いわゆる「武士は喰わねど高楊枝」という風を保った。「人を治める者は、人に養わるるものなり。ゆえに人の食を喰むものは人のことに死し、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂う」というが、彼らの本分と考えられていた。生産利殖は、仁義道徳に関係のない人の携わるものとされていたから、あたかもすべて商業は罪悪なりと言われた昔時と同様の状態であった。これが、ほとんど三百年間の風を成した。それも初めはごく簡単な方法で宜かったが、次第に智識は減じ気力は衰え、形式のみ繁多になり、遂に武士の精神廃り、商人は卑屈になって、虚偽横行の世の中となったのである。

本節では、競争が人生の多くの面に存在することを説いています。競争が激烈な場面(例えば競馬や競漕)では、人々は命をかけ、道義を忘れがちです。富の追求においても同様で、他人より多くの財産を持ちたいという激しい競争心が生じ、道徳を無視する傾向があります。しかし、孔子や孟子の教えに基づく古い時代の日本では、商業や富の追求は罪悪と見なされ、仁義道徳が重視されていました。この考えは、武士が消費者であり生産者ではなかった江戸時代にも引き継がれ、富を追求することと道徳的な生き方が両立しないとされていました。 先生は、このような歴史的背景が現代の商業や競争観に影響を与えており、日本の歴史と文化が現代のビジネスと競争の考え方に深く根ざしていることを示しています。

具体的には以下のようなことが含まれるでしょう。

  1. 道徳と富の両立の難しさ:江戸時代の日本では、武士は消費者であり、生産や商業に関わらず、仁義道徳を重んじる生活を送っていました。この歴史的な観点から、富の追求と道徳的な行動が必ずしも両立しないという観念が形成されました。これは、現代でも商業活動と道徳的、倫理的行動のバランスを取ることの難しさに影響を与えている可能性があります。

  2. 競争の見方:渋沢先生は、過度な競争が道徳を脇に置く傾向にあると指摘しました。これは、江戸時代の武士の価値観と連動しており、競争が過度になると人間性が損なわれるという考え方が、現代の競争観にも影響を与えている可能性があります。

  3. 西洋文化の影響との融合:江戸時代末期以降、西洋の文化や経済システムが日本に導入されましたが、その際にも伝統的な価値観との間で葛藤や融合が発生しました。これは現代においても、西洋式の競争主義と伝統的な日本の価値観との間でのバランスを模索することにつながっています。

要するに、渋沢先生が述べた歴史的背景は、日本が直面する現代の商業的・倫理的課題への理解を深める一助となっています。この歴史的な視点は、現代日本におけるビジネスの慣行や競争の方法に対する考え方に影響を与え続けていると思います。

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