見出し画像

論語と算盤①処世と信条: 11.得意時代と失意時代

およそ人の禍(わざわい)は多くは得意時代に萌(きざ)すもので、得意の時は誰しも調子に乗るという傾向があるから、禍害はこの欠陥に喰い入るのである。されば人の世に処するにはこの点に注意し、得意時代だからとて気を緩さず、失意の時だからとて落胆せず、情操をもって道理を踏み通すように、心掛けて出ることが肝要である。それとともに考えねばならぬことは、大事と小事とについてである。失意時代から小事もなお、よく必するものであるが、多くの人の得意時代における思慮は全くそれと反し、「なにこれしきのこと」といったように、小事に対してはことに軽侮的の態度をとりがちである。しかしながら、得意時代と失意時代とにかかわらず、常に大事と小事とについての心掛けを緻密にせぬと、思わざる過失に陥りやすいこ とを忘れてはならぬ。
誰でも目前に大事を控えた場合には、これを如何にして処置すべきかと、精神を注いで周密に思案するけれども、小事に対するとこれに反し、頭から馬鹿にして不注意の内にこれをやり過ごしてしまうのが世間の常態である。ただし箸の上げ下ろしにも心を労するほど小事に拘泥(こうでい、一つのことにこだわること)するは、限りある精神を徒労するというもので、何もそれほど心を用うる必要の無いこともある。また大事だからとて、さまで心配せずとも済まされることもある。ゆえに事の大小といったとて、表面から観察してただちに決する訳にはゆかぬ。小事かえって大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小にかかわらず、その性質をよく考慮して、しかる後に、相当の処置に出るように心掛くるのがよいのである。
しからば、大事に処するには如何にすれば宜いかというに、まず事に当たって、よくこれを処理することができようかということを考えてみなければならぬ。けれどもそれとて人々の思慮によるので、ある人は自己の損得は第二に置き、専らその事について最善の方法を考える。またある人は自己の得失を先にして考える。あるいは何物をも犠牲として、その事の成就を一念に思う者もあれば、これと反対に自家を主とし、社会のごときはむしろ眼中に置かぬ打算もあろう。蓋(けだ)し人は銘々その面貌の変わっておるごとく、心も異なっているものであるから、一様に言う訳には行かぬが、もし余にどう考えるかと問わるれば、次のごとく答える。すなわち、事柄に対し如何にせば道理に契うかをまず考え、しかしてその道理に契ったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己の為にもなるかと考える。そう考えてみた時、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にも契い、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のある所に従うつもりである。
かく事に対して是非得失、道理不道理を考査探求して、しかる後に手を下すのが、事を処理するにおいて宜しきを得た方法であろうと思う。しかし考えるという点からみれば、孰(いず)れにしても精細に思慮しなくてはならぬ。一見してこれは道理に契(かな)うから従うがよいとか、これは公益に悖(もと)るから棄てるが宜いとかいうがごとき、早飲み込みはいけない。道理に合いそうに見えることでも、非道理の点はなかろうかと、右からも左からも考えるがよい。また公益に反するように見えても、後々にはやはり、世の為になるものではなかろうかと、穿(うが)ち入って考えなくてはならぬ。一言にして是非曲直(ぜひきょくちょく、よいことと悪いことと曲がっていることとまっすぐなこと)、道理非道理と速断しても、適切でなければ折角の苦心も何にもならぬ結果となる。
小事の方になると、悪くすると熟慮せずに決定してしまうことがある。それが甚だ宜しくない。小事というくらいであるから、目前に現れた所だけでは極めて些細なことに見えるので、誰もこれを馬鹿にして、念を入れることを忘れるものであるが、この馬鹿にして掛かる小事も、積んでは大事となることを忘れてはならぬ。また小事にもその場限りで済むものもあるが、時としては小事が大事の端緒となり、一些事と思ったことが、後日大問題を惹起(じゃっき)するに至ることがある。あるいは、些細なことから次第に悪事に進みて、ついには悪人となるようなこともある。それと反対に、小事から進んで次第に善に向かいつつ行くこともある。始めは些細な事業であると思ったことが、一歩一歩に進んで大弊害を醸すに至ることもあれば、これがため一身一家の幸福となるに至ることもある。これらはすべて小が積んで大となるのである。人の不親切とかわがままとかいうことも、小が積んで次第に大となるもので、積もり積もれば政治家は政治界に悪影響を及ぼし、実業家は実業上に不成績を来し、教育家はその子弟を誤るようになる。されば小事必ずしも小でない。世の中に大事とか小事とかいうものはない道理、大事小事の別を立ててとやかくいうのは、畢竟君子の道であるまいと余は判断するのである。ゆえに大事たると小事たるとの別なく、およそ事に当たっては同一の態度、同一の思慮をもって、これを処理するようにしたいものである。
これに添えて一言しておきたいことは、人の調子に乗るは宜くないということである。「名を成すは常に窮苦(きゅうく)の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因す」と古人もいっておるが、この言葉は真理である。困難に処する時は丁度大事に当たったと同一の覚悟をもってこれに臨むから、名を成すはそういう場合に多い。世に成功者と目せらるる人には、必ず「あの困難をよくやり遂げた」、「あの苦痛をよくやり抜いた」というようなことがある。これすなわち、心を締めて掛かったという証拠である。しかるに失敗は多く得意の日にその兆しをなしておる。人は得意時代に処しては、あたかもかの小事の前に臨んだ時のごとく、天下何事かならざらんやの慨をもって、如何なることをも頭から呑んで掛かるので、動もすれば目算が外れてとんでもなき失敗に落ちてしまう。それは小事から大事を醸(かも)すと同一義である。だから人は得意時代にも調子に乗るということなく、大事小事に対して同一の思慮分別をもってこれに臨むがよい。水戸黄門光圀公の壁書中に「小なる事は分別せよ、大なることに驚くべからず」とあるは、真に知言というべきである。

材分有りて用当たる有り、貴ぶ所善く時に因るのみ 亢倉子(こうそうし)
(適材には適所があるが、尊ばれるのは時流にのったからだ)

衆人の智、以て天を測るべし、兼ねて聴き独り断ずは惟(おも)うに一人に在り 説苑(ぜいえん)
(衆人の智恵を集めれば天を測ることができるものだが、よく聴き自らが判断するのは一人でないと出来ないことである)

本節では、順調なときでも調子にのらず失意の時だからといって落胆ばかりしないこと、調子にのって小さいことを軽んじたり失意だからといって大きな志を忘れてはいけないといったことを述べています。また、渋沢先生の生き方としては自分のことだけを優先せず、まずは道理にかなっているか公の利益になるかを優先して考え二の次に自分のことを考えるようにしているとのことです。ただし、一見道理にあってなさそうに見えたり、公益に反するように見えるけれども、最終的には世のためになる事がらもあるので、細かなところにも気を配って表面だけをみないことが重要であると述べています。小さいことだからといって軽んじることなく分別をもってのぞむのがよいし、大きなことだといってもむやみに驚いたり慌てる必要はないということです。

本節には「情操」という言葉がでてきます。辞書をひくと「道徳・芸術・宗教など社会的価値をもった感情」とあります。情を操りルーチンワークを守り常に冷静にいることで芸術的にも社会的にも身近なところから新たな発見をしやすくなります。忙しさに忙殺されて小さなことに気づかなくなってしまったり、季節の変わり目にささいなことに感動したりできなくなってしまいます。

情操と道理を忘れず行きたいものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?