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論語と算盤③常識と習慣: 8.動機と結果

私は志の曲がった軽薄才子は嫌いである。いかに所作が巧みでも、誠意のない人は与(とも)に伍(ご)するを懌(よろこ)ばないが、しかし神ならぬ身には人の志まで見抜くということは容易でないから、自然、志の良否はとにかく、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである。かの陽明説の如きは、知行合一とか良知良能とかいって、志に思うことがそれ自身行為に現れるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私ども素人考えでは、志が善でも所作が悪になることもあり、また所作が善でも志が悪なることもあるように思われる。私は西洋の倫理学や哲学というようなことは少しも知らぬ。ただ四書や宋儒の学説によって、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するというものがある。その人の言うには、英国のミュアヘッドという倫理学者は、動機さえ善ならば、結果は悪でもいいという。いわゆる動機説で、その例として、クロムウェルが英国の危機を救わんがために、暗愚の君を弑し、自ら皇帝の位に上ったのは、倫理上悪でないといっているが、今日最も真理として歓迎せらるるパウルゼンの説では、動機と結果、すなわち志と所作の分量性質を仔細に較量してみなければならぬという。例えば、もしく国のためという戦の中にも、領土拡張の戦もあれば、国家存亡上、止むを得ぬ戦もある。主権者としては、均しく国家国民のために計ったとはいえ、必ずしも領土拡張の必要もないのに、その開戦の時機を誤ったとすれば、その主権者の行為は悪であるけれども、その無謀の開戦も時宜に適して連戦連勝、大いに国を富まし民を啓(ひら)くの基(もとる)をなしたという場合には、その行為は善と言わねばならぬ。前例のクロムウェルの場合にも、幸いに英国の危機を救い得たから善いが、もし志ばかり熱烈であっても、最後に国を危うくするような結果を招いたとすれば、やはり悪行為と判断されねばならぬ。
私はパウルゼンの説が果たして真理かどうかは解らぬが、単に志が善ならば、その所作も善だというミュアヘッドの説よりも、その志と所作とを較量した上に、善悪を定めるという説の方が確かなように思われる。
私が常に客を引見して、質問に応えることを自分の義務としているだけ、丁寧にすると、また頼まれたから止むを得ぬと厭々(いやいや)ながらするのでは、同一の事柄でも、その志が非常に異なる。これと同時に、同一の志でも、その時と所によって大いに事柄を異にすることもある。つまり、土地に肥瘠(ひせき)あり時候に寒暖あるごとく、吾人の思想感情も異なっているから、同一の志をもって向かっても、対者によってその結果を異にするのである。だから、人の行為の善悪を判断するには、よくその志と所作の分量性質を参酌(さんしゃく)して考えねばならぬのである。

今も昔も、誠意のある人が「所作の巧みな人間に利用され」ることは往々にしてあるようですし、「志が善でも所作が悪」「所作が善でも志が悪」になることも往々にしてあるようです。ここでいう善と悪とは?という疑問が常に湧くと思いますが、繰り返しになりますが「自己や身内の損得に走らず、自分の考えに固執することなく中庸である」ことや「自分の境遇位地をよく理解し道理を正しく活用する」態度が良いと説いているので、このような態度を善と呼んでいると思われます。そのため、志とはこころざす行き先というより、それに向かう態度の良し悪しを言っており、所作とは志を果たすための行為の巧みさや賢さや速さを表すのであろうと思われます。

常識的なルールや公平性を守りつつ、自らが所属する家族や組織体、さらには自治体や国の単位で利益を向上させることに誠実に努力・集中し、相応の対価をいただくことに感謝できる立場を目指しつつ、日々精進しようと思う今日この頃です。

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