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論語と算盤①処世と信条 4.人物の観察法

佐藤一斎先生は、人と初めて会った時に得た印象によってその人の如何なるかを判断するのが、最も間違いのない正確な人物観察法なりとせられ、先生の著述になった『言志録』のうちには、「初見の時に相すれば人多く違わじ」という句さえある。初めて会った時によくその人を観れば、一斎先生の言のごとく多くは誤またぬもので、たびたび会うようになってからする観察は考え過ぎて、かえって過誤に陥りやすいものである。初めてお会いしたその時に、この方はたいていこんな方だなと思った感じには、いろいろの理窟や情実が混ぜぬから、至極純な所のあるもので、その方がもし偽り飾っておらるれば、その偽り飾っておらるる所が、初見の時にはチャンと当方と胸の鏡に映ってありありと見えることになる。しかし、たびたびお会いするようになると、ああでない、こうであろうなどと、他人の噂を聞いたり、理窟をつけたり、事情に囚われたりして考え過ぎることになるから、かえって人物の観察を過まるものである。
また孟子は「人に存する者は、眸子(ぼうし、ひとみのこと)よりも良きはなし。眸子はその悪をおおうことあたわず。胸中正しければ、すなわち眸子あきらかなり。胸中正しからざれば、すなわち眸子くらし。」と、孟子一家の人物観察法を説かれている。すなわち孟子の人物観察法は、人の眼によってその人物の如何を鑑別するもので、心情の正しからざるものは何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは、眼がはっきりとして淀みがないから、これによってその人の如何なる人格であるやを判断せよというにある。この人物観察法もなかなか的確の方法で、人の眼をよく観ておきさえすれば、その人の善悪正邪はたいてい知れるものである。
論語に「子曰く、そのなす所を視、そのよる所を観、その安んずる所を察れば、人いずくんぞかくさんや。」、初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観てその人を知る孟子の観察法は、ともにすこぶる簡易なてっとりばやい方法で、これによってたいていは大過なく、人物を正当に識別し得らるるものであるが、人を真に知ろうとするには、かかる観察法では到らぬ所があるから、ここに挙げた論語為政篇の章句のごとく、視、観、察の三つをもって、人を識別せねばならぬものだというのが、孔子の遺訓である。
視も観もともに「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によって見るだけのことで、観は外形よりもさらに立ち入ってその奥に進み、肉眼のみならず、心眼を開いて見ることである。すなわち孔子の論語に説かれた人物観察法は、まず第一にその人の外部にあらわれた行為の善悪正邪を相し、それよりその人の行為は何を動機にしているものなるやをとくと観、さらに一歩を進めて、その人の安心はいずれにあるや、その人は何に満足して暮らしてるや等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になるもので、如何にその人が隠そうとしても、隠し得られるものでないというにある。如何に外部にあらわれる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人であるとは言えぬ。時には、悪をあえてすること無しとせずである。また外部に現れた行為も正しく、これが動機となる精神もまた正しいからとて、もしその安んずるところが飽食暖衣逸居するにありというようでは、時に誘惑に陥って意外の悪をなすようにもなるものである。ゆえに行為と動機と、満足する点との三拍子が揃って正しくなければ、その人は徹頭徹尾、永遠まで正しい人であるとは言いかねるのである。

本節のタイトル「人物の観察法」は、若干唐突な感じがします。

本書のいままでの流れ「論語と算盤を一緒に語る理由」→「日本人と論語の相性」→「天罰のしくみ」ときた後に「人間観察法」がなぜでてくるのかを自分なりに解釈してみます。

最近は何をよりどころにすればよいか非常に不明瞭な時代だと思います。フェイクニュースが溢れかえっていますし、いままでふれられてこなかったモラルについても急に解釈が厳しくなって事故のようにやり玉に挙げられたりする有名人が国内外に数多くいらっしゃいます。気の毒なことです。

若い頃のぼくの関心としては、ジャーナリズムや法律、経済、道徳、ルールにおける普遍的な正しさというものを見つけ出したいというのが中心でした。それなりに整理していたのですが、さまざまな国や団体が恣意的な目的でさまざまな方法を使って人々を洗脳し惑わすことが日常茶飯事になっている中では、理論的にそれらを探求して世に出したとて通用するわけはなく不毛であることに気づきました。

また、そもそもルールや法律というのはそれらが対象とする場に生活するステークホルダーがどのようなことを課題と認識するかによってその要否が変わりますし、技術の進歩や社会の変化によってその中身も変わってくるものなので、結局はそれを強要するための暴力装置をもつものが勝つわけですし、下手すると共倒れということもありえるわけです。

そこで、そもそもぼくたちが生きている目的にたちかえってみると、自分とその周辺がしあわせで快適に暮らすことなわけですので、上に述べた暴力装置とは逆らうことなく適度につきあいながら、自分が直接お会いして時間をともにする人をどう選ぶかということに一生懸命になるべきだなと気づくわけです。僕の場合、縁を大切にして時の流れに身をまかせ、いまの岡崎の地にいたったとこういうわけです。

世間の流行りすたりに敏感に反応するだけで強いものにすがりつくだけではまわりから信頼を得ることができませんし、精神安定が得られず病的になってしいます。そうではなくて、まずは歴史とご縁と論理を大切に自分をしっかりもった上で本能的な「人間観察力」を使って「まず第一にその人の外部にあらわれた行為の善悪正邪を相し、それよりその人の行為は何を動機にしているものなるやをとくと観、さらに一歩を進めて、その人の安心はいずれにあるや、その人は何に満足して暮らしてるや等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になる」との方針で付き合う相手を見極めて、まずは身近なとりまきからしあわせになっていきましょう、と渋沢先生はおっしゃりたいのかなと思いました。

この身近な人からしあわせにという教えは、古代ギリシャのエピクロスの生き方も同様な考え方だと思います。ご興味ある方はぜひ。

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