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論語と算盤③常識と習慣: 5.偉き人と完(まった)き人

史乗(しじょう、歴史)などに見ゆる所の英雄豪傑には、とかく智情意の三者の権衡(けんこう、つりあい)を失した者が多いようである。すなわち意志が非常に強かったけれども、智識が足りなかったとか、意志と智慧とは揃っていたが、情愛に乏しかったとかいうがごとき性格は、彼らの間にいくらもあった。かくのごときものは、いかに英雄でも豪傑でも、常識的の人とはいわれない。なるほど、一面から見れば非常に偉い点がある。超凡(ちょうぼん、非凡)的な所がある。普通一般人の企及(ききゅう、計画を立てて努力して到達すること)すべからざる点があるには相違ないが、偉き人と完(まった)き人とは大いに違う。偉い人は人間の具有すべき一切の性格にたとえ欠陥があるとしても、その欠陥を補って、余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、いわば変態である。それに反して完(まった)き人は、智情意の三者が円満に具足した者、すなわち常識の人である。余はもちろん、偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、むしろ完き人の世に隈なく充たんことを欲する。つまり、常識の人の多からんことを要望する次第である。偉い人の用途は無限とはいえぬが、完(まった)き人ならいくらでも必要な世の中である。社会の諸設備が、今日のごとく整頓し発達している際には、常識に富んだ人がたくさんいて働けば、それでなんらの欠乏も不足もない訳で、偉い人の必要は、ある特殊の場合を除いては、これを認むることが出来ない。
およそ人の青年期ほど思想が一定せず、奇を好んで突飛な行動に出でんとする時代は少なかろう。それも年を経るにしたがい、次第に着実になって行くものだが、青年時代には多くの人の心は浮動している。しかるに常識というものは、その性質が極めて平凡なものであるから、奇矯を好み突飛を好む青年時代に、この平凡な常識を修養せよというは、彼らの好奇心と相反する所があろう。偉い人になれと言わるれば、進んでこれに賛成するが、完(まった)き人となれといわるれば、その多くはこれを苦痛に感ずるのが、彼らの通有性である。しかしながら、政治の理想的に行なわるるも国民の常識に俟ち(まち、頼りにしてまかせる、望みを託する)、産業の発達進歩も実業家に負う所が多いとすれば、否でも常識の修養に熱中しなければならぬではないか。況(いわ)んや社会の実際に徴するに、政治界でも、実業界でも、深奥なる学識というよりは、むしろ健全なる常識ある人によって支配されているを見れば、常識の偉大なることは言うまでもないのである。

現代では、本節でいうところの偉き人のことをスペシャリスト、完き人のことをジェネラリストと呼ぶでしょうか。ただ、渋沢先生の時代の世間に認められる完き人と現代のジェネラリストとは必要とされる知識の内容と深さははるかに違うような気がします。特にIT業界において実プロジェクトで役に立つジェネラリストは、インフラ、ネットワーク、プログラミング、デバイス、セキュリティ、プロジェクトマネジメント、要件管理、アーキテクチャ、デザインなどなど分野が多岐にわたり、実務で常識的な判断ができるようになるにはそれなりの基礎知識と経験と勘が必要であり、それに加えて周りを説得するだけのコミュニケーション能力が必要になります。大半はこれができていないので世の中のほとんどのITプロジェクトが失敗するわけですね。

今も昔も知・情・意のバランスが重要であることは変わりないわけですが、技術も社会も複雑で規模が大きくなっており、さらに時代の流れが速く嘘がはびこる現代では、丁寧に学習し経験していかないとメンタルや体調が崩れてしまうので、ことさら注意が必要なのでしょうね。

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