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論語と算盤⑩成敗と運命: 5.逆順の二境はいずれより来るか

ここに二人があるとして、その一人は地位もなければ富もなく、もとよりこれを援き立てる先輩もない。すなわち、世に立って栄達すべき素因というものが、極めて薄弱であrが、わずかに世の中に立つに足るだけ、一通りの学問はして世に出たとする。しかるに、その人に非凡の能力があって、身体が健全で、いかにも勉強家で、行いが皆節に中り、何事をやらせても先輩をして安心させるだけに仕上げるのみならず、かえってその長上の意想外に出るほどにやるから、必ず多数人はこの人の行うところを賞讃するに相違ない。しかして、その人は官にあると野にあるとを問わず、必ず言行なわれ、業成り、終には富貴栄達を得らるるようになる。しかるに、この人の身分地位を側面から見ておる世人は、一も二もなく、彼を順境の人と思うであろうが、実は順境でも逆境でもなく、その人自らの力でそういう境遇を造り出したに過ぎないのである。
さらに他の一人は、性来懶惰で、学校時代には落第ばかりしておったのを、やっとお情で卒業したが、さてこの上は今まで学んだところの学問で世に立たねばならぬけれども、性質が愚鈍で且つ不勉強であるから、職を得ても上役から命ぜらるる所のことが、何もかも思うようにできない。心中には不平が起こって仕事に忠実を欠き、上役に受けが悪く、遂には免職される。家に帰れば父母兄弟には疎んぜられる。家庭に信用がないくらいなら、郷里にも不信用となる。こうなれば不平は益々嵩まり、自暴自棄に陥る。そこにつけ込んで悪友が誘惑すると、思わず邪路に踏み入り、勢い正道をもって世に立てぬことになるから、已むを得ず窮途に彷徨しなければならぬ。しかるに世人はこれを見て逆境の人といい、またそれが如何にも逆境であるらしく見えるのである。実はそうでなくて、皆自ら招いた所の逆境であるのだ。韓退之がその子を励ました『符読書城南』の詩中に、『木の規矩に従うのは、梓匠と輪輿にある。人が上手に人として振る舞うのは、その腹に詩書があるからである。詩書に励めば必ず身につき、励まなければ腹は空虚となる。学問の力を知りたければ、賢者と愚者は共に初めを同じくする。学ぶことができないことで、結局は異なる門を進むこととなる。両家がそれぞれ子を育てるが、少年たちは集まって遊ぶときは、一隊の魚と変わらない。十二、三歳になると、徐々に個々の特徴が現れ始める。二十歳になると、徐々に差がつき、清らかな水路に映る。三十歳になると、骨格が完成する。一人は竜となり、もう一人は豚となる。飛躍して去り、蟾蜍を顧みることができない。一人は馬前の卒となり、鞭で打たれる虫蛆となる。一人は公や相となり、府中で堂々としている。これについては、何が原因でそうなるのか、学んだか学ばなかったかによる。』云々という句があるが、こは主として学問を勉強することについて、いったものであるとはいえ、またもって逆順二境のよって岐るるを知るに足るであろう。要するに悪者は教うるとも仕方なく、善者は教えずとも自ら仕方を知っていて、自然とその運命を造り出すものである。ゆえに厳正のその運命を造り出すものである。ゆえに厳正の意味より論ずれば、この世の中には順境も逆境も無いということになる。
もしその人に優れた智能があり、これに加うるに欠くる所なき勉強をしてゆけば、決して逆境におる筈はない。逆境がなければ順境という言葉も消滅する。自ら進んで逆境という結果を造る人があるから、それに対して順境なぞという言葉も起こって来るのである。たとえば、身体の尫弱の人が、気候を罪して寒いから風を引いたとか、陽気に中って腹痛がするとかいって、自分の体質の悪いことはさらに口にしない。これも風邪や腹痛よいう結果の来る前に、身体さえ強壮にしておいたならば、何もそれらの気候のために病魔に襲わるることはないであろうに、平素の注意を怠るがために、自ら病気を招くのである。しかるに病気になったからといって、それを自分の責めとはせず、かえって気候を怨むに至っては、自ら作った逆境の罪を天に帰すると同一論法である。孟子が梁の恵王に『王歳を罪すること無くんば、ここに天下の民至らん』といったのも、やはり同じ意味で、政治の悪いことを言わず、歳の悪いことにその罪を帰せしめんとした誤りである。もし民の帰服せんことを欲するならば、歳の豊凶はあえて与かる所にあらず。専ら治者の徳の如何を主とせなければならぬ。しかるに民が服せぬからといって、罪を凶歳に帰して自己の徳の足りらざるを忘れているのは、あたかも自ら逆境を造りながら、その罪を天に問わんとすると同一主義である。とにかく世人の多くは、わが智能や勤勉を外にして逆境が来たかのごとく、いうの幣がある。そは愚もまた甚だしいもので、余は相当なる智能に加うるに勉強をもってすれば、世人のいわゆる逆境などは、決して来らぬものであると信ずるのである。
以上述べた所よりすれば、余は逆境はないものであると、絶対に言い切りたいのであるが、そうまで極端に言い切れない場合が一つある。それは智能才幹、何一つの欠点もなく、勤勉精励、人の師表と仰ぐに足るだけの人物でも、政治界、実業界に順当に志の行なわれてゆく者と、その反対に何事も意と反して蹉跌する者とがある。しかし後者のごとき者に対して、余は真意義の逆境なる言葉を用いたいのである。

本節では、二人の異なる人物と彼らの運命を描写しています。一人目は、地位も富もなく、自身の才能と勤勉さで成功を収める人物です。彼は困難を乗り越え、富貴栄達を得るが、これは彼自身の努力の結果であり、外部の環境や順境に依存していない。対照的に、もう一人は怠惰で勉強を怠ったため、失敗し、逆境に陥る。彼の失敗は自ら招いたものであり、外部の逆境のせいではない。韓退之の詩「符読書城南」を引用し、成功と失敗は個人の努力によるものであり、真の順境や逆境は存在しないと結論付けています。ただし、才能や努力に関わらず逆境にある人もいることを認め、これを真の逆境と定義しています。本節で渋沢先生は、個人の選択と行動が人生の結果を形作るというメッセージを伝えています。

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