見出し画像

論語と算盤④仁義と富貴: 3.孔夫子の貨殖富貴観

従来、儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴(ふうき)の観念、貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は、氷炭(ひょうたん)相容れざるものとなっておる。しからば孔子は、「富貴の者に仁義王道の心あるものは仁者(じんしゃ)ないから、仁者となろうと心掛けるならば、富貴の念を捨てよ」という意味に説かれたかというに、論語二十篇を隈なく捜索しても、そんな意味のものは、一つも発見することはできない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向かって説をなしておられる。しかしながら、その説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向かって全局を解することができず、遂に誤りを世に伝えるようになってしまったのである。
例を挙ぐれば、論語の中に、「富と貴きとはこれ人の欲する所なり。その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり。貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり。その道をもってせずして、これを得れば去らざるなり」という句がある。この言葉は、如何にも言裡(げんり)に富貴軽んじた所があるようにも思われるが、実は、側面から説かれたもので、仔細(しさい)に考えてみれば、富貴をいやしんだところは一つもない。その主旨は、富貴に淫するものを誡められたまでで、これをもって、ただちに孔子は富貴を厭悪(えんお)したとするは、誤謬もまた甚だしといわねばならぬ。孔子の言わんと欲する所は、道理を有た富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えないとの意である。してみれば、富貴をいやしみ貧賤を推称した所は、さらにないではないか。この句に対して、正当の解釈を下さんとならば、宜しく「道をもってせずしてこれを得れば」という所によく注意することが肝要である。
さらに一例をもってすれば、同じく論語中に「富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾(われ)またこれをなさん。如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」という句がある。これも普通には、富貴をいやしんだ言葉のように解釈されておるが、今正当の見地からこれを解釈すれば、句中富貴をいやしんだというようなことは、一つも見当らないのである。「富を求め得られたなら、いやしい執鞭の人となってもよい」というのは、「正道仁義を行なって富を得らるるならば」ということである。すなわち「正しい道を踏んで」という句が、この言葉の裏面に存在しておることに注意せねばならぬ。しかして下半句は、「正当の方法をもって富を得られぬならば、いつまでも富に恋々としておることはない。奸悪(かんあく)の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行なう方がよい」との意である。ゆえに、道に適せぬ富は思い切るが宜いが、必ずしも好んで貧賤におれとは言ってない。今この上下二句を約言すれば、「正当の道を踏んで得らるるならば、執鞭の士となっても宜いから富を積め、しかしながら不正当の手段を取るくらいなら、むしろ貧賤におれ」というので、やはりこの言葉の半面には「正しい方法」ということが潜んでおることを忘れてはならぬ。孔子は富を得るためには、実に執鞭のいやしきをも厭わぬ主義であった、と断言したら、恐らく世の道学先生は眼を円くして驚くかもしれないが、事実はどこまでも事実である。現に、孔子自らそれを口にされておるから、致し方ない。もっとも孔子の富は絶対的に正当の富である。もし不正当の富や、不道理の功名に対しては、いわゆる「我において浮雲のごとし」であったのだ。しかるに、儒者はこの間の区別を明瞭にせずして、富貴といい功名といいさえすれば、その善悪にかかわらず、何でも悪いものとしてしまったのは、早計もまた甚だしいのではないか。道を得たる富貴功名は、孔子もまた、自ら進んでこれを得んとしていたのである。

儒者は今も昔も「富貴功名(財産や功名)」のことをとにかく卑しくて悪いものと解釈するが、本来論語における孔子の発言を正しく読めば、「道理を有た富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えない」「正当の道を踏んで得らるるならば、執鞭の士となっても宜いから富を積め、しかしながら不正当の手段を取るくらいなら、むしろ貧賤におれ」と言っておる。

おそらく古く国家権力の犬となった学者としての儒者は、儒教を使って国民を支配しやすくするため、とにかく国民は「富貴功名」に勤しむことなく、お国のため税金をたくさん支払って、お国のために積極的に働いて徳をつみなさい、と論語を解釈したのであろうが、孔夫子も渋澤先生も人間の心理というものをよくご存知で、どのようなルールをもって人々の欲望を自由にしておくと無理なく全体がうまくいき、国が栄えるかをよくわかっていらっしゃる、というものです。

今の日本の官僚たちも、この苦しい社会情勢のなか増税を行い、意味不明な行動制限を強要し、過去の反省もないまま意味のない政策にだけ金を注ぎこもうとする。

正しい国の繁栄のために必要なのは、進化心理学や幸福論に基づいた正しい施策であって、技術の進展や社会の変化にあわせた規制改革や減税を通した民間への自由の解放こそが必要なのだと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?