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論語と算盤⑨教育と情誼: 5.理論より実際

世間一体に、教育のやり方をみると──私はことに今の中等教育なるものが、その弊が甚だしいと思う──単に智識を授けるということにのみ、重きを置き過ぎている。換言すれば、徳育の方面が欠けている。確かに欠乏している。また一方に学生の気風を見ると、昔の青年の気風と違って、今一と呼吸という勇気と努力、それから自覚とが欠けている。かく言えばとて、自分のごとき昔者が決して自慢、高慢をする訳ではないが、何しろ当時の教育は学課の科目が多い。あれもこれもという有様であるので、その多い科目の修得にのみ逐われて、維れ日も足らずという風であってみれば、したがって他を顧みる遑もない勘定で、人格、常 識等の修養に心を注ぐことのできぬのも自然の数で、返す返すも遺憾千万な訳である。現に処世の人となってる人々は、ともかくとして、これから世間に出て大いに奮励努力、国家のために尽くそうと思われる方々は、この辺によくよく心を用いて貰いたい。
 ところで、自分に最も関係の深い実業方面の教育について見るに、その昔にありては実業教育と名付くべきほどのものはなかったが、維新以後になっても、明治十四、五年の頃までは、この方面には些の進歩を見ることはできなかった。商業学校のごときも、その発達は僅々この二十年ほどの間のことである。
一体文明の進歩ということは政治、経済、軍事、商工業、学芸等が悉く進んで、そこに初めて見ることができるので、その中のいずれか一つが欠如しても、完全なる発達、文明の進歩のあるものではない。しかるに日本では、その文明の一大要素である商工業が、久しい間、閑却して顧みられずにあった。翻って、欧州の諸列強に見るに、他の方面のことも、もちろん進歩しているが、その中でも、とりわけ進んでいるのが実業である。すなわち商工業である。わが国においても、近来は実業教育に世人が注意するようになって、進歩発達はして来たが、さて惜しいかな、その教育の方法はというと、前述のごとく、その他の教育の方法と同じく、せくがままに、急ぐがままに、理智の一方にのみ傾き、規律であるとか、人格であるとか、徳義であるとかいうことは、毫も顧みられない。機運の趨く所、余儀ない次第と言わば言え、実に嘆ずべきことである。これを軍人社会に見ると、その教育法のしからしむる所が、あるいは軍事とかいうその職が、すでにその性質を養うものか。その辺の所は解らぬが、一般的統一、規律服務、命令等のことが、整然と厳格に行なわれているようであるのは、実に結構なことで、立派な人格な士を見受けるものも、非常に頼もしい次第である。
実業界に立つ者は、前述の諸性質を充分に備えた上に、なお一つ尊ばなければならぬ一大事が残っている。それは自由ということで、実業の方では、軍事上の事務のように、一々上官の命令を俟ってるようでは、とかく好機を逸しやすいので、何事も命令を受けてやるという具合では、一寸発達ということはむずかしいのである。その結果、ただ智へ、智へと傾いて行って、ただもう、おのれが利益利益とのみ逐って孟子のいわゆる「上下交も利を征りて饜かず、国危し」というような状態に陥ってはと、これのみ気遣われるので、どうがなして、こういうことに立ち至らぬようと、竊かに手近い実業教育においても、智育と徳育とを併行せしめて行きたいものと、及ばずながらも、多年努めている次第である。

本節では、現代の中等教育における問題点を指摘しています。先生は教育が知識の伝授に重点を置き過ぎ、徳育の側面が欠けていると批判しています。また、学生の気質についても、昔の青年と比べて勇気や努力、自覚が欠けていると見ています。実業教育の発展が遅れた歴史にも触れ、日本の商工業が長い間軽視されてきたことを嘆いています。しかし、最近の実業教育の進歩にもかかわらず、教育方法が理智の側面にのみ偏っており、規律や人格、徳義を顧みない点に失望を表しています。実業界に立つ者は自由を重んじ、智育と徳育の両方を併せ持つべきだと主張し、自らもその実現に努めていると述べています。

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