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論語と算盤⑥人格と修養: 10.権威ある人格養成法

現代青年にとって、最も切実に必要を感じつつあるものは、人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であったが、西洋文化の輸入するに連れて思想界に少なからざる変革を来し、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となって、すなわち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが充分咀嚼されておらず、といって耶蘇(やそ)教が一般の道徳律になっておる訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰嚮(ききょう)してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでおるくらいである。したがって、一般青年の間に人格の修養ということは、ほとんど閑却されておるかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき趨向(すうこう)である。世界列強国がいずれも宗教を有して、道徳律の樹立されておるのに比し、独りわが国のみがこの有様では、大国民として甚だ恥ずかしい次第ではないか。試みに社会の現象を見よ。人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利のためには何事も忍んでなすの傾きがあり、今では国家を富強にせんとするよりも、むしろ自己を富裕にせんとする方が主となっておる。富むことも、もとより大切なことで、何も好んで箪食瓢飲陋巷(たんしょくひょういんろうこう)にあって、その楽しみを改めぬということを、最上策とするには及ばない。孔子が「賢なる哉回(かなかい)や」と、顔淵(がんえん)の清貧に安んじておるのを褒められた言葉は、要するに「不義にして富み且つ貴きは、我において浮雲のごとし」という言葉の裏面をいわれたまでで、富は必ずしも悪いと貶めたものではない。しかしながら、ただ一身さえ富めば足るとして、さらに国家社会を眼中に置かぬというは慨すべき極(きょく)である。説は富の講釈に入ったが、何にせよ社会人心の帰向がそういう風になったのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けておるからである。国民の帰依すべき道徳律が確立しており、人はこれに信仰を持って社会に立つという有様であるならば、人格は自ずから養成されるから、社会は滔々(とうとう)として、我利 (がり)のみこれ図るというようなことはない訳である。ゆえに余は青年に向かって、ひたすら人格を修養せんことを勧める。青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ、活力外に揚がる底のもので、いわゆる威武も屈する能(あた)わざるほどの人格を養成し、他日自己を富裕にするとともに、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ。信仰の一定せられざる社会に処する青年は、危険が甚だしいだけに、自己もそれだけに自重してやらねばならぬのである。
さて、人格の修養をする方法工夫は種々(いろいろ)あろう。あるいは仏教に信仰を求めるも宜しかろう。あるいは「クリスト」教に信念を得るも一方法であろうが、余は青年時代から儒道に志し、しかして孔孟の教えは余が一生を貫いての指導者であっただけに、やはり忠信孝悌の道を重んずることをもって、大なる権威ある人格養成法だと信じている。これを要するに、忠信孝悌の道を重んずるということは、全く仁をなすの基で、処世上一日も欠くべからざる要件である。すでに忠信孝悌の道に根本的修養を心掛けた以上は、さらに進んで智能啓発の工夫をしなければならぬ。智能の啓発が不充分であると、とかく世に処して用を成すに方り、完全なることは期しがたい。したがって、忠信孝悌の道を円満に成就するということもできなくなって来る。如何となれば、智能が完全なる発達を遂げておればこそ、物に応じ事に接してぜひの判別ができ、利用厚生の道も立つので、ここに初めて根本的の道義観念と一致し、処世上なんらの誤謬も仕損じもなく、よく成功の人として終局を全うすることを得るからである。人生終局の目的たる成功に対しても、近時多種様にこれを論ずる人があって、目的を達するにおいては手段を選ばずなどと、成功という意義を誤解し、何をしても富を積み、地位を得られさえすれば、それが成功であると心得ている者もあるが、余はその様な説に左袒(さたん)することができない。高尚なる人格をもって正義正道を行い、しかる後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とはいわれないのである。

本節では、現代青年にとって人格の修養が切実に必要であると強調しています。渋沢先生は、維新以前の日本が道徳的教育に富んでいたこと、西洋文化の導入による思想の変革、儒教の退けられること、そして現代の道徳混沌を指摘します。また、国民としての恥ずかしさを感じ、利己主義の増加と国家より自己の富を優先する現象を憂慮しています。渋沢先生は、人格修養の重要性を説き、青年に真摯さ、率直さ、精気、活力を持ち、国家富強のために努めるよう呼びかけています。また、忠信孝悌の道を重んじ、智能の啓発を促し、成功は高尚な人格と正義正道を通じて得られると主張しています。

ちまたでは関東の某芸能事務所や関西の某鉄道会社の一芸能部門が少年少女に犯罪を犯しつづけていたことがやっと公に報道されるようになりましたが、人類といえどもイチ動物なので生まれながら変態癖をもつ人物が生まれることもあるでしょうし、古くは機能していた組織ルールが機能しなくなることもあるでしょうから、それに道徳がブレーキをかけるのが本来の姿であると思います。

日本はすでに組織や社会のモラルが機能しない国に成り下がっているので、なんらかのレジームチェンジが必要なのかもしれませんね。

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