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論語と算盤③常識と習慣: 6.親切らしき不親切

世間には、冷酷無情にして聊(いささ)かも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものが、かえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴(いただ)きおるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契ったものが、かえって世に疎んぜられ落伍者となる場合がいくらもある。天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するは、誠に興味ある問題である。
おもうに人の行為の善悪は、その志と所作と相俟って較量(きょうりょう、おしはかること)せねばなるまい。志が如何に真面目で忠恕(ちゅうじょ、真心と思いやりがあること、忠実で同情心が厚いこと)の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪侈(ほうへきじゃし、勝手気ままで、わがまま放題に悪い行為をすること)では何にもならぬ。志においては、飽くまで人の為になれかしと思って居ても、その所作が人の害となるようでは善行といわれぬ。昔の小学読本に、「親切のかえって不親切になりし話」と題して、雛が孵化せんとして卵の殻から離れずに困っておるのを見て、親切な子供が殻を剥いてやったところが、かえって死んでしまったという話があるが、孟子(もうし、中国の儒学者)にもこれと同じような例が、たくさんあったように記憶する。文句は一々覚えていないが、人のためを計るといっても、その室に闖入(ちんにゅう、無断で入ること)してその戸を破る。これをしも忍ぶかといったような意味や、それから梁の恵王(りょうのけいおう、中国の魏の第三代君主)が政事を問うた時に、「庖(くりや、台所)に肥肉(ひにく)あり、廏(うまや、馬小屋)に肥馬あり、民に饑色(きしょく、飢えている様子)あり、野に餓莩(がひょう、餓死者の死体)あり、これ獣を率いて人を食(は)ましむるもの也」といって、刃をもって人を殺すも、政事をもって人を殺すも、同じだと断定している。それから告子(こくし、中国の思想家)と不動心説を論じた所に、「心に得ずとも気に求むること勿(なか)れとは可なれども、言(こと)に得ずも心に求むること勿(なか)れとは不可なり。それ志は気の帥(すい)なり。気は体の充てるなり。それ志は至れり、気は次ぐ。ゆえに曰く、その志を持してその気を暴(そこ)なうことなかれ」とある。これは、志はすなわち心の本で、気は心の所作となって現れる末である。志は善で忠恕の道に契っていても、出来心といってふと志に適わぬことをすることが往々ある。だからその本心を持して、出来心たる気を暴(そこ)わぬよう、すなわち所作に間違いのないように、不動心術の修養が肝要である。孟子(もうし)自身は浩然之気(こうぜんのき、何事にも屈しない道徳的な勇気)を養ってこの修養に資したが、凡人はとかく所作に間違いを来しやすい。孟子(もうし)はその例として、「宋人、その苗の長ぜざるをうれえて、これを揠(ぬ)く者あり。芒芒然(ぼうぼうぜん)と帰り、その人に謂(いい)ていわく、今日病れたり、われ苗を助けて長(ちょう)ずと。その子趨(はし)りて住(ゆ)きて、これを視れば、苗すなわち槁(か)る云々」と、大いに告子(こくし)を罵倒している。苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を芟除(さんじょ、刈り除くこと)することによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのは、いかにも乱暴である。孟子(もうし)の不動心術の可否はとにかく、世間往々苗を助けて長ぜしむるの行為のあることは、争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることができぬ訳である。
これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていても、所作が正しいという理窟は、厳格に言えば有ろう筈はないが、聖人も欺くに道をもってすれば与しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。例えば、将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負いて拝観に出でて褒美を貰った。ところが、平素不良の一無頼漢(ぶらいかん、ならず者)がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美を貰ってやろうと、他人の老婆を借りて背負って拝観に出かけた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側役人から彼は褒美を貰わんための偽孝行であると故障を申し立てた。すると吉宗公は、イヤ真似は結構であると篤く労わられたということである。また孟子(もうし)の言に「西子(せいし)も不潔を蒙(こうむ)らば、すなわち人皆鼻を掩(お)うてこれを過ぐ」というのがある。いかに傾国の美人といえども、汚穢(おわい、汚れていること)を蒙(こうむ)っていては、誰とて側へ寄る人はなかろう。それと同時に、内心如夜叉(にょやしゃ、恐ろしい性格)でも嫋々婀娜(じょうじょうあだ、なよなよと艶めかしいさま)としておれば、知らず識らず迷うのが人情である。だから志の善悪よりは、所作の善悪が人の眼につきやすい。したがって、巧言令色(こうげんれいしょく、言葉をうまく飾り顔色をうまく繕うこと)が世に時めき、諫言(かんげん、戒めの言葉)は耳に逆い、ともすれば忠恕の志ある真面目な人が貶黜せられて天道是か非かの嘆声を洩らすに引きかえ、わるがしこい人前の上手な人が比較的成功し信用さるる場合のある所以である。

本節では、真面目で思いやりや親切心があっても、その所作や行為が鈍く時を逸しており的をはずれていたら、かえって不親切になってしまうということが書かれています。そのため、志が多少曲がっていても、私利私欲に乗じた行動であったとしても、その行動が迅速で的を得て道理にかなっているならば褒美に値するとあります。

確かに利他行動の生物学的説明はゲーム理論等による集団の利益につながるといった道理によるもので、親切や利他行動についても知・情・意のバランスがとれているのが他者からの妬みが回避できるので持続可能に近づくのでしょうが、その精神より質と量が伴っている方が道理にかなっているので、評価されやすいということだし、その評価は正しいと言えるということでしょう。

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