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論語と算盤⑥人格と修養: 7.すべからくその原因を究むべし

乃木大将の殉死について、世間の論ずる所を観るに、ある説のごときは、殉死については多少非難なきに非ざれど、乃木大将にして始めて可なり。他人これにならうべきに非ずと論ずるもあり。または、絶対に感歎すべき武士的行為にして、実に世の中を聳動(しょうどう)せしめたる天晴れの最期とて、限りなき崇敬の心をもって論評するもありて、ほとんど当時の新聞雑誌が、そのことについて塡められたほどであるから、大将の行為は現社会に大なる影響を与えたと言い得るだろうと思う。
私の観る所も、ほぼ後者と同様なれども、乃木大将が末期(まつご)における教訓が尊いというよりは、むしろ生前の行為こそ真に崇敬すべきものありと思う。換言すれば、大正元年九月十三日までの乃木大将の行為が純潔で優秀であるから、その一死が青天の霹靂のごとく、世間に厳しい感想を与えたのである。大将の殉死が如何なる動機から起こったに致せ、ただその一死だけが、かくのごとく世間に劇(はげ)しい影響を与えたのではなかろう。ゆえに、私は前に述べた点について、少しく意見を敷衍(ふえん)してみようと思う。ただし、私は乃木大将とは親しみが厚くなかったから、その性行を審(つまび)らかに知らぬけれども、殉死後各方面の評論から観察すると、実に忠誠無二の人である。廉潔の人である。その一心は、ただ奉公の念に満たされた人である。しかして事に処して常に精神をここに集注して、荀(いやしく)もせぬ人であるということは、すべての行為において、察知し得らるるのである。
ことに軍務的行動については、何物をも犠牲にして、君のため国のために尽くすという精神に富まれたことは、現に二人の令息が日露戦役(せんえき)にて前後討死(うちじに)された時にも、将軍は君国のために堅忍その情を撓(た)めて、涙一滴も人に見せなかった一事に徴しても明らかである。
全体将軍は青年の頃より、軍人としては事毎に長上(ちょうじょう)の命令に服従して、水火(すいか)の中(なか)をも辞せぬという、堅実なる服従気性を持っておられたと同時に、事の是非善悪についての議論には、いささかも権勢に屈せぬという凛乎(りんこ)たる意考を持っておられたように見受けられる。それかあらぬか、ある場合に先輩の意見に忤(さから)って、休職になったなどということは、蓋(けだ)しその鞏固の意志に原因せしものと想像される。
さらば、至って褊狭(へんきょう)な過激な、ただ感情的の人かと思うと、その間に藹然(あいぜん)たる君子の風ありて、あるいは諧謔(かいぎゃく)をもって、あるいは温乎たる言動をもって、人を懐けられ、自己が率いた兵隊などに対しても、それこそ心からその人の痛苦を恕察(じょさつ)し、またその戦死については、故郷の父母妻子に対して、深く哀情を添えておられた。
昔時(せきじ)軍人の美談として、世に伝えられている呉起(ごき)が、その部下の兵士の創(きず)の膿を吸って癒(なお)してやった時に、その武士は大いに喜びて、この創が癒えたらば、将軍のために戦場で命を棄てねばならぬといって感じた。するとその母の言うには、人情さもあるべきことであるが、
汝の兄もその通りにして終に討死したとて、歎いたという話がある。呉起が兵士の膿を吸ったのは衷心から出たのか、あるいは一つの術数でありはせぬかと、その母は疑って歎いたのではあるまいかと思う。しかるに乃木将軍に至っては、全く天真爛漫たる衷情(ちゅうじょう)から、兵士を犒(ねぎら)われたのである。単に軍隊におられる時のみしかるに非ずして、学習院に院長としておられた時にも、掬(きく)するばかりの情愛がすべての方面に現れている。さらばその平生は如何にやというと、独り武ばかりを誇りとする人に非ずして、文雅にも富まれている。
如何に忠誠の人でもただ武骨一片で、花を見ても面白くない、月を見ても感じもない、という人は困る。「強いばかりが武夫(もののふ)か」ということは、物の本にもあり、かの薩摩守忠度(さつまのかみただのり)が、 討死の際に和歌の詠草を懐中せられたとか、あるいは八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が、勿来関(なこそのせき)の詠歌のごとき、一つの美談としてある。昔時の武士が、武勇と文雅とを兼ね備えたのは、実に奥床しい感がする。しかるに乃木将軍は詩歌の道にも長けて、しかも高尚な意味を平易の言葉で述べることが、誠に巧みであった。かの二百三高地における絶句のごとき、あるいは、また故郷に帰って故老に会うのが心苦しいという詩のごとき、または辞世の歌のごとき、いずれも真情流露(しんじょうりゅうろ)、少しも巧みを弄せず、ごく滑らかに詠まれている。
かくのごとき奉公の念に強い所から、不幸にも先帝の崩御に際して、最早この世に生き甲斐がないと思われたのであろう。もとより将来の軍事についても、学習院の事務についても、また当時英吉利の皇族に対する接伴のことも、種々(しゅじゅ)関心のことはありしならむも、しかし軽重これに代えがたいという所から、忍びがたきを忍びて殉死と決して、さてこそそのことが発露したればこそ、将軍の心事が世間に顕われて、実に世界を聳動したのである。ゆえに私は思う。ただその一命を棄てたのが偉いのではなくして、六十余歳までのすべての行動、すべての思想が偉かったということを、頌讃(しょうさん)せねばならぬ。
とかく世の中の青年は、人の結末だけを見てこれを欽羨(きんせん)し、その結末を得る原因がどれほどであったかということに、見到らぬ弊が多くてならぬ。ある人は栄達したとか、ある人は富を得たとかいって羨望するけれども、その栄達、もしくはその富を得るまでの勤勉は容易ならぬ。智識はもちろん、力行とか忍耐とか、常人の及ばざる刻苦経営の結果であるに相違ない。その智識その力行、その忍耐というものに想い到らないで、ただその結果だけを見てこれを羨望するのは、甚だ謂れないことである。乃木大将に対するも、ただその壮烈の一死のみを感歎して、その人格と操行とに想到せぬのは、あたかも人の富貴栄達を見て、いたずらにその結果を羨望すると同様になりはせぬか。ゆえに私は将軍に対して、殉死その物を軽視するという意味ではないけれども、かくのごとく天下を感動せしめたる所以のものは、壮烈無比なる殉死にありといわんよりは、むしろ将軍の平生の心事、平生の行状(ぎょうじょう)が、これをしてしからしめたものなりと解釈するのである。

本節で、渋沢先生は乃木大将の殉死について、世間の意見が分かれていることを述べています。一部の人々は、この行為が特に乃木大将に適していたと評価し、他の人々は模倣すべきではないと考えています。他方で、多くの人々は乃木大将の殉死を壮大で感動的な武士の行為として高く評価しています。渋沢先生自身は、乃木大将の一生を通じた忠誠と行動こそが、彼の殉死を特別なものにしたと考えており、乃木大将の死よりも、彼の生涯の行動と価値観が重要であると主張しています。また、乃木大将の忠誠心や勇気だけでなく、文化への貢献も称賛しています。

結果だけでなく、その過程や背景も理解することの重要だということですね。

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