見出し画像

論語と算盤④仁義と富貴: 1.真正の利殖法

実業というものは、如何に考えて宜いものか。もちろん世の中の商売、工業が利殖を図るものに相違ない。もし商工業にして物を増殖するの効能がなかったならば、すなわち商工業は無意味になる。商工業は何たる公益もないものになる。去りながら、その利殖を図るものも、もしことごとくおのれさえ利すれば、他はどうでも宜かろうということをもって、利殖を図って行ったならば、その事物は如何に相なるか、むずかしいことをいうようであるけれども、もし果たして前陳の如き有様であったならば、かの孟子の言う「なんぞ必ずしも利を曰わん、また仁義あるのみ」云々、「上下交も利を征りて饜かず、国危うし」云々、「荀(いやしく)も義を後にして利を先にすることをせば、奪わずんば饜(あ)かず」となるのである。それゆえに、真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでないと私は考える。かく言えば、とかく利殖を薄うして人欲を去るとか、普通外に立つというような考えに、悪くすると走るのである。その思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利欲によって働くは俗である。仁義道徳に欠けると、世の中の仕事というものは、段々衰微してしまうのである。
学者めいたことを言うようであるが、支那の学問に、ことに千年ばかり昔になるが、宋時代の学者が最も今のような経路を経ている。仁義道徳ということを唱えるにつきては、かかる順序から、かく進歩するものであるという考えを打ち棄てて、すべて空理空論に走るから、利欲を去ったら宜しいが、その極その人も衰え、したがって国家も衰弱に陥った。その末は遂に元に攻められ、さらに禍乱が続いて、とうとう元という夷(えびす)に一統されてしまったのは、宋末の慈惨である。ただ、とかくは空理空論なる仁義というものは、国の元気を沮喪(そうそう)し、物の生産力を薄くし、遂にその極、国を滅亡する。ゆえに仁義道徳も悪くすると、亡国になるということを考えなければならぬ。されば利殖を主義とするか、おのれさえ利すれば宜しい、人は構わぬという方の主義に基づいてやって行くか、今いう隣国のある一部分、元の当時の有様はそれである。人は構わぬ、おのれさえ宜ければ良い、国家は構わぬ、自己さえ宜ければ良い。その極、国家は如何なる権利を失い、如何なる名声を落とすとも、個人の発達を考えて国家を顧みる人は、ほとんど稀だという有様である。宋の時代には、前述の道徳仁義について国を亡ぼしたし、今日はまた、利己主義において身を危ううすると、いわねばならぬのである。これは独り、わが隣国ばかりではない。他の国々も皆、同一であって、つまり利を図るということと、仁義道徳たる所の道理を重んずるということは、並び立って相異ならん程度において、初めて国家は健全に発達し、個人は各々その宜しきを得て、富んで行くというものになるのである。
試みに例えば石油であるとか、もしくは製粉であるとか、あるいは人造肥料であるというような業務について考えてみても、もし利益を進めるという観念がなくて、なりゆき次第でどうでも宜いというような風にやったならば、決して事業が発達するものではない。富の増進するものでないことは、明らかである。仮に、もしその仕事が自己の利害に関係せず、人毎に儲かってもおのれの仕合せにならぬ。損しても不仕合せにならぬということであったならば、その事業は完全に進まぬけれども、おのれの仕事であれば、この物を進めたい。この仕事を発達せしむるということは、争うべからざる事実である。されば、もしさういう観念から他のことを凌いで、あるいは世の中の大勢を知らず、あるいは事情を察せずに、われさえ善ければ宜いということであったならば、如何になるか。必ずともにその不幸を蒙(こうむ)って、おのれ一人を利そうと思った。そのおのれもまた、不幸を蒙るということになるのである。ことに、ごく昔の事物の進歩せぬ時代は、あるいは「マグレ」幸いということがあったけれども、世の進むにしたがって、すべての事物がどうしても、規則的にやって行かなければならぬ時代において、おのれ自身さえ都合が宜いと言うならば、例えば鉄道の改札場を通ろうというに、狭い場所をおのれさえ先へ通ろうと、皆思ったならば、誰も通ることができぬ有様になって、ともに困難に陥る。近い例をいうと、おのれをのみという考えが、おのれ自身の利をも進めることが出来ぬというは、この一事に徴しても分かるだろうと思うのである。ここにおいて、私が常に希望する所は、物を進めたい、増したいという欲望というものは、常に人間の心に持たねばならぬ。しかしてその欲望は、道理によって活動するようにしたい。この道理というのは、仁義徳、相並んで行く道理である。その道理と欲望とは相密着して行かなければ、この道理も前にいう、支那の衰微に陥ったような風に走らないとはいえない。また、後にいう欲望は如何に進んで行っても、道理に違背する以上は、いつまでも奪わずんば饜かずという不幸をみるに至るであろうと思うのである。

実業において、利殖つまりは自分の利益を高めるために働くことは必要だが、私利私欲だけに走ると国が滅びる、逆に空理空論の仁義道徳に走って利殖を否定しても国が滅びる、と先生はおっしゃる。
まさに、空理空論の仁義道徳とは、国家機密や民間技術を他国に譲りわたし、防衛さえ放棄し、スパイにやらせ放題している某国のありさまをあらわしているようである。

人が生まれもってそなえている仁義礼知信の五常の徳をルールとした道理に則った利殖の追求は、現代の人間社会にも重要で、個人や企業、国家といった組織の大きさに関わらず、実業の根本におくべき教えである、ということです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?