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論語と算盤⑥人格と修養: 2.人格の標準は如何

人は万物の霊長であるということは、人皆自ら信じておる所である。同じく霊長であるならば、人々相互の間における、なんらの差異なかるべき筈なるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしといっている。現にわれわれの交際する人々は、上王公貴人(かみおうこうきじん)より、下匹夫匹婦(しもひっぷひっぷ)に至るまで、その差異もまた甚だしいのである。一郷一村に見るも、すでに大分の差があり、一県一州に見れば、その差はさらに大きく、これを一国に見 れば益々懸隔して、ほとんど底止する所なきに至るのである。人すでに、その智愚尊卑(ちぐそんぴ)において、かように差等を有するとすれば、その価値を定むるもまた、容易のことではない。況んやこれに明確なる 標準を付するにおいてをやである。しかし人は、動物中の霊長としてこれを認むるならば、その間には自ずから優劣のあるべき筈である。ことに人は棺(かん)を蓋って後、論定まるという古言より見れば、どこかに標準を定め得る点があると思われる。
人を見て万人一様なりとするには一理ある。万人皆相同じからずとするのもまた論拠がある。したがって人の真価を定むるにも、この両者の論理を研究して適当の判断を下さねばならぬから、随分困難のことではあるが、その標準を立つる前に、如何なる者を人というか、まずそれを定めてかからねばなるまいと思う。しかしこれが、なかなかの困難事で、人と禽獣(きんじゅう)とはどこが違うかと言うような問題も、昔は簡単に説明されたであろうが、学問の進歩にしたがって、それすら益々複雑な説明を要するに至ったのである。昔、欧州のある国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、なんらの教育も与えずにおき、成長の後、連れ出してみたが、二人とも少しも人間らしい言語を発することができず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったと言う。これは事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬということは、この一話によっても解かるのである。四肢五体具足して人間の形を成しておるからとて、われわれはこれをもって、ただちに人なりと言うことはできぬのである。人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人(しんじん)と認めらるるのである。一言にしてこれを覆えば、万物の霊長たる能力ある者についてのみ、初めて人たるの真価ありと言いたいのである。したがって、人の真価を極むる標準も、この意味について論ぜんとするのである。
古来歴史中の人々、何者かよく人として価値ある生活をなしたであろう。往昔(おうせき)支那の周時代にあっては、文武両王並び起(た)って殷王の無道を誅(ちゅう)し、天下を統一して専ら徳政を施かれた。しかして後世文武両王をもって道徳高き聖主と称している。してみれば文武両王のごときは、功名も富貴もともに、得られた人というべきである。しかるに文王、武王、周公、孔子と並び称せられている夫子はどうである。また聖人として崇められ、孔子に対して四配と言える顔回(がんかい)、曾子、子思(しし)、孟子のごときも、聖人に亜(つ)ぐものとして推称せられているに関わらず、これらの人々は終生道のために天下に遊説して、その一生を捧げたものであるけれども、戦国の際、一小国家すら自ら有することはできなかった。されど徳においては文武に譲らずして、その名もまた高いものであったが、富貴という方面からこれを物質的に評するならば、じつに雲泥霄壌(うんでいせいじょう)の差ありて比較にならないのである。ゆえにもし富を標準として人の真価を論ずれば、孔子は確かに下級生である。しかし孔子自身は、果たして左様に下級生と感じたであろうか。文王、武王、周公、孔子、皆その分に満足してその生を終わったとするならば、富をもって人の真価の標準とし、孔子をもって人間の下級生なりとなすのは、適当なる評価と言い得るであろうか。これをもって人を評価するの困難を知るべきである。善くその人のもってする所を視、そのよる所を観て、しかして後その人の行為が世道人心(せどうじんしん)に如何なる効果ありしかを察せざれば、これを評定することはできぬと思う。
わが国の歴史上の人物について見るも、またその感なき能わざるものがある。藤原時平と菅原道真、 楠 正成と足利尊氏、いずれを高価に評定し、いずれを低価とすべきか、時平も尊氏と共に富においては成功者であった。しかし今日から見れば、時平の名は道真の誠忠を顕す対象としてのみ評さるるに過ぎない。これに反して道真の名は、児童走卒といえども、なおよくこれを記憶している。しからば、いずれを果たして真価ある者と目(もく)すべきであろうか。尊氏、正成二氏について見るも同様である。蓋(けだ)し人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難は、これをもって知らるるのであるから、人の真価というものは、容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属する、いわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽くしたる精神と効果とによって、すべきものである。

本節では、「人は万物の霊長とされるが、社会内での階層差は顕著である。本来は、物質的な富や地位ではなく、徳や知恵によって人の価値を評価すべきだ」と主張されています。また、歴史上の人格を挙げ、道徳的貢献に基づく真の価値を追求すべきであり、人間の真価は精神的な充実と社会への影響力によって定義されるべきだと結論付けています。

人格の標準とはそういうものであるべきということですね。

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