本節は、日本の歴史と文化に関する深い洞察を提供するものです。主に、徳川幕府の時代の心学とその時代の教育および人物育成に関する問題点を扱っています。
心学は、徳川幕府の中期に石田梅岩によって始められた思想で、神道、儒教、仏教の精神を統合し、実践的な道徳教育を目指したものです。この思想は、梅岩の弟子である手島堵庵や中沢道二などによって広められました。中沢道二の著作『道二翁道話』には、孝行に関する教えが記されており、その中で特に「近江の孝子」と「信濃の孝子」に関する話 ※ が有名です。この話は、孝行の真の意味を問い直し、形式的な孝行ではなく、自然な形での孝行が真の孝行であることを示しています。
一方で、経済界の人物供給と教育の問題についても言及されています。高等教育を受けた人々の供給過多が社会問題となっており、学生たちは単一の教育方法によって同一の人物像を形成してしまっていると指摘されています。これは、古い時代の寺子屋教育と比較して、現代の教育方法が十分に多様性を持っていないという批判です。欧米の先進国、特に英国の教育システムは、この点で日本の現状とは異なると述べられています。この部分は、教育と社会のバランスに関する重要な視点を提供しています。
※ 「近江の孝子」と「信濃の孝子」に関する話とは以下のようなものです。近江の国に住む孝子は、孝行を天下の大本と考え、日夜その実践に努めていました。ある時、彼は信濃の国にも有名な孝子がいると聞き、その孝子に会い、孝行の最善の方法を学ぼうと決意します。彼は遠く離れた信濃の国まで旅をし、その孝子に会いに行きます。到着した時、近江の孝子は信濃の孝子が山で仕事をしていると聞かされ、彼の母親と話をします。夕方、信濃の孝子が薪を背負って家に帰ってきました。近江の孝子は、信濃の孝子の行動から孝行を学ぼうと観察します。しかし、彼は驚くべき光景を目の当たりにします。信濃の孝子は、疲れているにも関わらず、母親に足を洗わせたり、足を揉ませたりしています。さらに、夕食時には食事の準備や給仕をすべて母親に任せ、小言も言います。これを見た近江の孝子は衝撃を受け、信濃の孝子を不孝だと非難します。しかし、信濃の孝子の答えは意外なものでした。彼は、自分の行動は母親の親切心を無駄にしないためであり、母親が息子のために何かをしたいという願望を叶えるためのものだと説明します。信濃の孝子の考えは、「孝行をしようとしての孝行ではなく、自然に任せることが真の孝行」という哲学に基づいています。この話は、形式的な孝行ではなく、親の幸せを第一に考える自然な孝行の大切さを教えています。また、表面的な行動だけでなく、孝行の背後にある心の動きを重視することの重要性を示しています。