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論語と算盤⑨教育と情誼: 6.孝らしからぬ孝

徳川幕府の中葉より行なわれはじめ、神儒仏三道の精神を合わせ、平易なる言葉を用い、ごく卑近にして、しかも通俗な譬喩を挙げて、実践道徳の鼓吹に力めたものに、「心学」というものがある。八代将軍吉宗公の頃、石田梅巌初めてこれを唱え、かの有名な『鳩翁道話』なども、この派の手に成ったものであるが、梅巌の門下よりは手島堵庵、中沢道二などの名士出で、この両人の力により、心学は普及せらるるようになったものである。
私はかつてこの両人の中の中沢道二翁の筆になった、『道二翁道話』と題せらるる一書を読んだことがある。その中に載ってる近江の孝子と信濃の孝子についての話は、いまだに忘れ得ざるほど意味のある面白いもので、確か「孝子修行」という題目であったかのごとくに記憶しておる。その名は何といったか、今明確に覚えておらぬが、近江の国に一人の有名な孝子があった。
「それ孝は天下の大本なり、 百行のよって生ずる所」と心得て、日夜その及ばざるを、ただ惟れ怖れておったが、信濃の国にまた有名なる孝子あると聞き及び、親しくその孝子に面会して、「如何にせば最善の孝を親に尽くすことのできるものか、一つ問い訊して試みたいものだ」との志を懐き、遥々と野越え山越えて、夏なお涼しき信濃の国まで、わざわざ近江の国から孝行修行に出掛けたのである。
 漸々にして孝子の家を尋ね当て、その家の敷居を跨いだのは、正午過ぎであったが家の中には、ただ一人の老母があるだけで、実に寂しいものである。「御子息は」と尋ねると、「山へ仕事に行ってるから」とのことに、近江の孝子は委細来意を、留守居の老母まで申し述べると、「夕刻には必ず帰ろうから、とにかく上がって御待ち下さるように」と勧められたので、遠慮なく座敷に上がって待ってると、果たして夕暮れ方に至れば、信濃の孝子だと評判の高い子息殿が、山で採った薪を一杯背負って帰って来られた。そこで近江の孝子は、ここぞ参考のために大いに見ておくべき所だろうと心得て、奥の室から様子を窺っておると、信濃の孝子は、薪を背負ったままで縁に瞠乎と腰を掛け、荷物が重くて仕様がないから、手伝って卸してくれろと、老母に手伝わしている模様である。近江の孝子はまず意外の感に打たれて、なお窺ってるとも知らず、今度は足が泥で汚れてるから、浄水を持って来てくれの、やれ足を拭うてくれのと、様々な勝手な注文ばかりを老母にする。しかるに老母は如何にも悦ばしそうに嬉々として、信濃の孝子が言うままに、よく倅の世話をしてやるので、近江の孝子は誠に不思議のこともあれば、あるものと驚いてるうちに、信濃の孝子は足も綺麗になって炉辺に座ったが、今度はまたあろうことか有るまいことか、足を伸ばして、大分疲れたから揉んでくれと老母に頼むらしい模様である。それでも老母は嫌な顔一つせず揉んで行ってるうちに、「はるばる近江からの御客様があって、奥の一ト間に通してある」由を信濃の孝子に語ると、そんならば御逢いしようとて座を起ち、近江の孝子が待ってる室にノコノコやって来た。
近江の孔子一礼の後、信濃の孔子に委細来意を告げて、孝行修行のために来れる一部始終を物語り、かれこれ話し込むうち早や夕飯の時刻にもなったので、信濃の孝子は晩飯の支度をして客人に出すようにと、老母に頼んだ様子であったが、いよいよ膳が出るまで、信濃の孝子は別に母の手伝いをしてやる模様もなく、膳が出てからも平然として母に給仕させるのみか、やれ御汁が鹹くて困るとか、御飯の加減がどうであるとか、と老母に小言ばかりを言う。そこで近江の孝子も遂に見かねて、「私は貴公が天下に名高い孝子だと承って、はるばる近江より孝行修行のため罷り出たものであるが、先刻よりの様子を窺うに、実にもって意外千万のことばかり。毫も御老母を労わらるる模様のなきのみか、剰え老母を叱らせらるるとは何事ぞ。貴公のごときは孝子どころか、不孝の甚だしきものであろうぞ」と励声一番開き直って詰責に及んだのである。これに対する信濃の孝子の答弁が、また至極面白い。
「孝行孝行と、如何にも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行をしようとしての孝行は、真実の孝行とは言われぬ。孝行ならぬ孝行が、真実の孝行である。私が年老いたる母に種々と頼んで、足を揉ませたりするまでに致し、御汁や御飯の小言をいったりするのも、母は子息が山仕事から帰って来るのを見れば、定めし疲れてることだろうと思い、「さぞ疲れたろう」と親切に優しくして下さるので、その親切を無にせぬようにと、足を伸ばして揉んで貰い、また客人を饗応すについては、定めし不行き届きで息子が不満足だろうと思って下さるものと察するから、その親切を無にせぬため、御飯や御汁の小言までもいったりするのである。何でも自然のままに任せて、母の思い通りにして貰うところが、あるいは世間に、私を孝子孝子と言い囃して下さる所以であろうか」というのが、信州の孝子の答えであった。これを聞いて、近江の孝子も翻然として大いに悟り、「孝の大本は何事にも強いて無理をせず、然のままに任せたる所にある。孝行のために孝行を力めて来たわが身には、まだまだ到らぬ点があったのだ」と気付くに至った。と、説いた所に『道二翁道話』の孝行修行の教訓があるのである。
人物過剰の一大原因
経済界に需要供給の原則があるごとく、実社会に投じて活動しつつある人間にも、またこの原則が応用されるようである。言うまでもなく、社会における事業には一定の範囲があって、使うだけの人物を雇い入れると、それ以上は不必要になる。しかるに、一方人物は年々歳々たくさんの学校で養成するから、いまだ完全に発達せぬわが実業界には、とてもそれらの人々を満足させるように使い切ることは不可能である。ことに今日の時代は、高等教育を受けた人物の供給が、過多になっておる傾きが見える。学生は一般に高等の教育を受けて、高尚の事業に従事したいとの希望を持ってかかるから、たちまち、そこに供給過多を生じなければ止まぬことになってしまう。学生がかくのごとき希望を懐くのは、個人として、もちろん嘉すべき心掛けであるが、これを一般社会から観、あるいは国家的に打算したらどうであろうか。余は必ずしも喜ぶべき現象として、迎えることはできないように思われる。要するに、社会は千篇一律のものではない。したがって、これに要する人物には、いろいろの種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、卑くければ使丁たり車夫たる人物も必要である。人を使役する側の人は少数なるに反し、人に使役される人は無限の需要がある。されば学生がこの需要多き、人に使役さるる側の人物たらんと志しさえすれば、今日の社会といえども、いまだ人物に過剰を生ずるようなことはあるまいと考える。しかるに今日の学生の一般は、その少数しか必要とされない。人を使役する側の人物たらんと志しておる。つまり、学問して高尚な理窟を知って来たから、馬鹿らしくて人の下などに使われることは、できないようになってしまっておる。同時に、教育の方針もまた若干その意義を取り違え、無暗に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上がり、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するということを知らぬので、いたずらに気位ばかり高くなって行くのだ。かくのごとくんば、人物の供給過剰もむしろ当然のことではあるまいか。
今さら、寺子屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも、昔の方が巧くいっていた。今日に比較すれば、教育の方法などは極めて簡単なもので、教科書と言ったところで、高尚なのが四書五経に八大家文ぐらいが関の山であったが、それによって養成された人物は、決して同一類型の人物ばかりではなかった。それは、もちろん教育の方針が全然異なっていたからではあろうけれども、学生は各々その長ずる所に向かって進み、十人十色の人物となって現れたのであった。例えば、秀才はどんどん上達して高尚な仕事に向かったが、愚鈍の者は非望を懐かずに、下賤の仕事に安んじて行くという風であったから、人物の応用に困るというような心配は少なかった。しかるに、今日では教育の方法は極めて宜いが、その精神を穿き違えているために、学生は自己の才不才、適不適をも弁えず、彼も人なり我も人なり、彼と同一の教育を受けた以上、彼のやるくらいのことは自分にもやれるとの自負心を起こし、自らいやしい仕事に甘んずる者が少ないという傾向である。これ昔の教育が百人中一人の秀才を出したに反し、今日は九十九人の普通的人物を造るという教育法の長所ではあるが、遺憾ながらその精神を誤ったので、遂に現在のごとく中流以上の人物の供給過剰を見るの結果を齎したのである。しかし、同じ教区の方針を執りつつある、欧米先進国の有様を見るに、教育によって、かかる弊害を生ずることは少ないように思う。ことに英国のごときは、わが国における現時の状態とは、大いに違って、充分なる常識の発達に意を用い、人格ある人物を造るという点に、注意しておるように見える。もとより教育のことに関してその多くを知らぬ余のごとき者の、容易に容喙さるべき問題ではないが、大体から観て今日のような結果を得る教育は、あまり完全なるものであるとは、いわれまいと思う。

本節は、日本の歴史と文化に関する深い洞察を提供するものです。主に、徳川幕府の時代の心学とその時代の教育および人物育成に関する問題点を扱っています。

心学は、徳川幕府の中期に石田梅岩によって始められた思想で、神道、儒教、仏教の精神を統合し、実践的な道徳教育を目指したものです。この思想は、梅岩の弟子である手島堵庵や中沢道二などによって広められました。中沢道二の著作『道二翁道話』には、孝行に関する教えが記されており、その中で特に「近江の孝子」と「信濃の孝子」に関する話 ※ が有名です。この話は、孝行の真の意味を問い直し、形式的な孝行ではなく、自然な形での孝行が真の孝行であることを示しています。

一方で、経済界の人物供給と教育の問題についても言及されています。高等教育を受けた人々の供給過多が社会問題となっており、学生たちは単一の教育方法によって同一の人物像を形成してしまっていると指摘されています。これは、古い時代の寺子屋教育と比較して、現代の教育方法が十分に多様性を持っていないという批判です。欧米の先進国、特に英国の教育システムは、この点で日本の現状とは異なると述べられています。この部分は、教育と社会のバランスに関する重要な視点を提供しています。

※ 「近江の孝子」と「信濃の孝子」に関する話とは以下のようなものです。近江の国に住む孝子は、孝行を天下の大本と考え、日夜その実践に努めていました。ある時、彼は信濃の国にも有名な孝子がいると聞き、その孝子に会い、孝行の最善の方法を学ぼうと決意します。彼は遠く離れた信濃の国まで旅をし、その孝子に会いに行きます。到着した時、近江の孝子は信濃の孝子が山で仕事をしていると聞かされ、彼の母親と話をします。夕方、信濃の孝子が薪を背負って家に帰ってきました。近江の孝子は、信濃の孝子の行動から孝行を学ぼうと観察します。しかし、彼は驚くべき光景を目の当たりにします。信濃の孝子は、疲れているにも関わらず、母親に足を洗わせたり、足を揉ませたりしています。さらに、夕食時には食事の準備や給仕をすべて母親に任せ、小言も言います。これを見た近江の孝子は衝撃を受け、信濃の孝子を不孝だと非難します。しかし、信濃の孝子の答えは意外なものでした。彼は、自分の行動は母親の親切心を無駄にしないためであり、母親が息子のために何かをしたいという願望を叶えるためのものだと説明します。信濃の孝子の考えは、「孝行をしようとしての孝行ではなく、自然に任せることが真の孝行」という哲学に基づいています。この話は、形式的な孝行ではなく、親の幸せを第一に考える自然な孝行の大切さを教えています。また、表面的な行動だけでなく、孝行の背後にある心の動きを重視することの重要性を示しています。


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