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論語と算盤③常識と習慣: 10.正につき邪に遠ざかるの道

およそ事物に対し「かくせよ」「かくするな」というがごとき正邪曲直(せいじゃきょくちょく、正義か邪悪か、人の道として曲がっているか、真っ直ぐであるか)の明瞭なる者は、ただちに常識的判断を下し得るが、場合によってはそれも出来かねることがある。例えば、道理を楯にして言葉巧みに勧められでもすると、思わず知らず、平生自己の主義主張とする所よりも、反対の方向に踏み入らざるを得ないようになって行くものである。かくのごとき、無意識の中に自己の本心を滅却されてしまうこととなるのであるが、左様の場合に際会しても、頭脳を冷静にしてどこまでも自己を忘れぬように注意することが、意志の鍛錬の要務である。もし、そういう場合に遭遇したなら、先方の言葉に対し、常識に訴えて自問自答してみるが宜い。その結果、先方の言葉に従えば、一時は利益に向かい得らるるが、後日に不利益が起こって来るとか、あるいはこの事柄に対してこう処断すれば、目前は不利でも将来のためになるとか、明瞭に意識されるものである。もし目前の出来事に対し、かくのごとき自省ができたらば、自己の本心に立ち帰るはすこぶる容易なることで、したがって、正につき邪に遠ざかることができる。余はかくのごとき手段方法が、すなわち意志の鍛錬であると思うのである。
一口に意志の鍛錬というものの、それには善悪の二者がある。例えば、石川五右衛門のごときは、悪い意志の鍛錬を経たもので、悪事にかけてはすこぶる意志の鞏固(きょうこ、ゆるがないさま)な男であったといって差し支えない。けれども、意志の鍛錬が人生に必要だからとて、何も悪い意志を鍛錬するの必要はないので、自分もまたそれについて説を立てる訳ではないが、常識的判断を誤った鍛錬の仕方をやれば、悪くすると石川五右衛門を出さぬとも限らない。それゆえ、意志鍛錬の目標は、まず常識に問うてしかる後、事を行なうが肝要である。こうして鍛錬した心をもって事に臨み人に接するならば、処世上過誤なきものといって宜しかろうと思う。
かく論じ来れば、意志の鍛錬には常識が必要であるということになって来るが、常識の養成については別に詳説してあるから、ここには省くとしても、やはりその根本は孝悌忠信(こうていちゅうしん、真心を尽くし誠意をもって父母や兄など目上の人に仕えること)の思想に拠らなければならぬ。忠と孝とこの二者より組み立てたる意志をもって、何事も順序よく進ませるようにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬において間然する所はないと信ずる。しかしながら、事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起こるものでない。唐突に湧起したり、さなくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことが、いくらもある。そういう機会にはあまり熟慮している時間がないから、即座に機宜を得た答えをしなければならぬが、平素、鍛錬を怠った者には、その場に適当な決定をすることが一寸できにくい。したがって、勢い本心に反したような結末を見なければならぬ。ゆえに、何事も平素においてよく鍛錬を重ねるならば、遂にはそれがその人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであろう。

子曰く、徳の脩(おさ)めざる、学の講(こう)ぜざる、義を聞きて徒(うつ)る能(あた)わざる、不善を改(あらた)むる能(あた)わざる、是れ吾の憂えなり。(論語)

本節では、意志の鍛錬には常識が必要であり、孝悌忠信の意志をもって熟考するのがよいとあります。

私も大手外資系IT企業から独立して自分の会社を立ち上げた直後、良かれと思ってお手伝いをした炎上プロジェクトを立て直し成功裡にリリースに導いたにもかかわらず、契約先のプライムコントラクタから気に食わないといって不払いをおこされ、プロジェクト受注先企業にお願いしてことなきを得た経験を思い出します。相手をわきまえず邪悪の手助けをしてしまったわけですね。

また、どんな気に食わない組織であろうと長年それなりの規模で回っている組織体では、つつがなく日常の仕事が回っていきますし、お給料も遅延なく支払われます。そのような安定的な組織では、自分が考える邪悪を排除し正義のもと居心地をよくするためには、それなりのポジションに昇り詰めるか、それなりのポジションの人に自分の組織の独立を確保してもらうといった対応が必要なのだなと感じていたりします。

自分の会社は小さいものの、幸いなことにそれなりの規模の組織体とのお付き合いの中で仕事をさせていただいているので、その中でよりよいパフォーマンスを出せるよう精進して、今の平和な環境を維持していければと思う今日この頃です。

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