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論語と算盤③常識と習慣: 2.口は禍福の門なり

余は平素多弁の方で、よく種々の場合に口を出し、あるいは演説なぞもところ嫌わず、頼まれればやるので、知らず識(し)らず言い過ぎることなぞあって、人からしばしば揚げ足を取られたり、笑われたりすることがある。しかし、いかに揚げ足を取られようが、笑われようが、余はひとたび口にして言う以上は、必ず心にもないことは言わぬという主義である。したがって、自分自身では妄語したとは思っておらない。あるいは世人には、妄語と聞こえる場合がないでもなかろうが、少なくとも自分は、確信のある所を口にしたつもりでいる。口舌は禍の門であるだろうが、ただ禍の門であるということを恐れて一切口を閉じたら、その結果はどうであろう。有要な場合に有要な言を吐くのは、できるだけ意思の通ずるように言語を用いなければ、折角のことも有邪無邪中に葬られねばならぬことになる。それでは禍の方は防げるとしても、福の方はいかにして招くべきか、口舌の利用によって福も来るものではないか。もとより多弁は感心せぬが、無言もまた珍重すべきものではない。啞(おし、ものが言えない人)はこの世の中において、いかなる用を弁じ得るか。
余のごときは多弁の為に禍もあるが、これによってまた福も来るのである。例えば、沈黙していては解らぬのであるけれども、一寸口を開いたために、人の困難な場合を救ってやることができたとか、あるいはよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いて貰ったら宜しかろうと頼まれて、物事の調停をしてやったとか、あるいは口舌のあるために、種々の仕事を見出すことができたとかいうように、すべて口舌が無かったら、それらの福は来るものではないと思う。して見れば、これらは誠に口舌より得る利益である。口は禍の門であるとともに、福の門でもある。芭蕉の句に「ものいへば 唇寒し秋の風」というのがある。これも要するに、口は禍の門ということを文学化したものであろうけれども、こういう具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる。極端に解釈すれば、ものを言うことができないことになる。それではあまり範囲が狭過ぎるのである。
口舌は実に禍の起こる門でもあるが、また福祉の生ずる門でもある。ゆえに福祉の来るためには、多弁あえて悪いとは言われぬが、禍の起こる所に向かっては言語を慎まねばならぬ。片言隻語(へんげんせきご、ほんのちょっとした言葉)といえども、決してこれを妄(みだ)りにせず、禍福の分かるる所を考えてするということは、何人にとっても忘れてはならぬ心得であろうと思う。

本節を読むと渋沢先生はどうもおしゃべりなお人柄だったようです。議論がお好きで、話をすることで相手のことがよくわかるし、しゃべることによって良いこともあるとおっしゃっています。賢人たるもの「心にもないことは言わぬ」ことに気をつけ、「禍福の分かるる所を考えてする」ことでおしゃべりも社会のためになるということでしょうか。

昨今はコロナ禍が長引く中世の中がギスギスした雰囲気があり、SNSなどを見てもちょっとした失言に対し鬼の首をとったかのように大騒ぎする人たちも多いですが、もちろん常識や節度を守った形でさまざまな意見を許容する自由な言論の場が普通になるとよいなと思います。

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