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論語と算盤⑥人格と修養: 11.商業に国境なし

明治三十六年、桑港(サンフランシスコ)において学童問題というものが突発した。それから後も次第に、日米間の国交が薄くなるような傾向を生じたというのは、日本人が薄くするのではなくして、亜米利加(アメリカ)のある方面の人が、段々に日本を嫌うという有様を生じた。さて、そういう有様を生ずると、あたかも明治三十五年に桑港(サンフランシスコ)の金門公園(ゴールデン・ゲート・パーク)において見た所の「日本人泳ぐべからず」の事柄が段々盛んに進んで来るようになった。亜米利加(アメリカ)に対して特殊の印象を有ってる私、ことに実業界の一人として、また日本全体の実業界に対して、深く心神を労している身であるから、国交上に大なる憂いを抱いた。その後、桑港(サンフランシスコ)におる日本人間に在米日本人会なるものを組織した。その会長の手島謹爾氏が、特に渡辺金蔵という人を日本に送られて、私に請求せらるるには、「カルフォルニヤ」州において、亜米利加(アメリカ)人がとかく日本人を嫌うという感情を改善せしむるために、在米日本人会を企てたのである。ついては本国(日本)においてもその意味を理解して、大いに賛同してくれるようにということであった。私はその企図(きと)の至極機宜(きぎ)に適するものと思って、われわれも充分に助力するから、在米諸君も大いに力めるようにしたら宜かろうと言って、渡辺金蔵氏に私が明治三十五年に金門公園(ゴールデン・ゲート・パーク)において感ぜしことを話して、会長たる手島氏を始め、その他の会員にもよく注意してくれということを伝言した。それが明治四十一年であったと思う。
 その歳の秋、亜米利加(アメリカ)から太平洋沿岸の商業会議所の議員が、多数日本へ来遊することになった。それはわが東京商法会議所、及び各地の商業会議所が同じ位置なるをもって、太平洋沿岸の商業会議所の諸君に、団体を組んで日本に旅行してくれということを勧誘したによるものであるが、一つは日米両国間の国交親善に努むるため、すべての誤解を除却したいという意味をもって成り立ったものである。そのときに日本に来遊せられたのは、桑港(サンフランシスコ)においてはエフ・ダブリュー・ドールマン、「シャトル」ではジェー・ディ・ローマンあるいは「ポートランド」のオー・エム・クラーク等の人々では、私は種々の会合において、これらの諸君に会談して、日米の関係について従来の沿革を詳述し、諸君の力で誤解を解くようにして戴きたいと希望し、また一方には日本から米国に移住してる人々については、欧米の習慣に慣れぬために公徳が修まらぬとか、あるいは風采が鄙劣(ひれつ)だとか、あるいは同化しないとかいうような欠点があれば、その欠点は相ともに矯正して、勉めて直させるようにして、米国人に嫌われぬ所の人間たらしむることを心掛けるのが肝要である。今日の場合、人種とか宗教とかの相違から、日本人を嫌うというようなことは、文明なる亜米利加(アメリカ)人として、よもあるまいと思う。もしこれありとすれば、それは亜米利加(アメリカ)人の誤謬(ごびゅう)である。のみならず、亜米利加(アメリカ)の当初の趣意に悖(もと)る訳である。わが日本を世界に紹介してくれたのは亜米利加(アメリカ)である。日本はそれを徳として、今日まで国交の親善をつとめているのに、その亜米利加(アメリカ)が人種的の僻見、宗教差異の偏頗(へんぱ)心から、日本人を嫌って差別的待遇をするというのは、亜米利加(アメリカ)としてなすべきことでない。果たして、しからば亜米利加(アメリカ)は、初めは正義にして後には暴戻(ぼうれい)といわねばならぬ、ということを懇々と述べたについて、当時来遊せられた商業会議所の諸君も、真に道理だと言って深く喜んでくれた。

君子は慎みて以て禍を辟け、篤くして以て揜(おお)われず、恭(うやうや)しくして以て恥に遠ざかる。礼記

之を求むるに道あり、之を得るに命あり。是れ求むとも得るに益なし。外に在る者を求むればなり。孟子

本節では、明治36年のサンフランシスコでの学童問題が触れられ、日米関係の悪化傾向が指摘されています。渋沢先生は、アメリカ人の日本人に対する偏見が高まり、特に「日本人泳ぐべからず」という事件が進展したことを憂慮しました。彼は在米日本人会の設立を提案し、日本とアメリカ間の誤解を解消し、友好関係を築くことを目指しました。さらに、渋沢先生は、日本人移民の行動を改善し、互いの文化への適応を促進することが必要と強調し、文明国としてのアメリカの行動に反する差別的な扱いに疑問を投げかけ、日米両国の友好と平等な関係の重要性を訴えたそうです。

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