論語と算盤①処世と信条 5.論語は万人共通の実用的教訓
明治六年官を辞して、年来の希望なる実業に入ることになってから、論語に対して特別の関係ができた。それは初めて商売人になるという時、ふと心に感じたのは、これからはいよいよ銖鍿(しゅし、わずかなこと)の利もて、世渡りをしなければならぬが、志を如何に持つべきかについて考えた。その時前に習った論語のことを思い出したのである。論語にはおのれを修め人に交わる日常の教えが説いてある。論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売はできまいかと考えた。そして私は論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることができると考えたのである。
そこへちょうど、玉乃(世履)という岩国の人で、後に大審院長になり、書も達者、文も上手、至って真面目な人で、役人中では玉乃と私とはマー循吏(じゅんり、法に忠実でよく人民を治める役人)といわれていた。二人は官で非常に懇親にし、官も相並んで進み、勅任官になった。二人はともに将来は国務大臣になろうという希望をいだいて進んでいたのだから、私が突然官を辞して商人になるというを聞き、痛く惜しまれ、ぜひにと言って引き止めてくれた。私はその時、井上さんの次官をしていたので、井上さんは官制のことについて内閣と意見を異にし、ほとんど喧嘩腰で退いた。そして私も井上さんとともに辞したから、私も内閣と喧嘩して辞したように見えたのである。もちろん私も井上さんと同じく、内閣と意見は違っていたけれども、私の辞したは喧嘩ではない。主旨が違う。私の辞職の原因は、当時のわが国は政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。しかしわが日本は、商売が最も振るわぬ。これが振るわねば、日本の国富を増進することができぬ。これは如何にもして他の方面と同時に、商売を新興せねばならぬと考えた。その時までは商売に学問は不要である。学問を覚えればかえって害がある。「貸家(かしいえ)と唐様(からよう、中国風の凝った書体のこと)で書く三代目」といって、三代目は危険であるという時代であった。そこで不肖ながら学問をもって利殖を図らねばならぬという決心で、商売人に変わったのであるけれども、しかしそこまでは、いくら友人でも分からなかったのだから、私の辞職を喧嘩だと合点し、ひどく私を誤っているとして責めた。君も遠からず長官になれる、大臣になれる。お互いに官にあって国家のために尽くすべき身だ。しかるにいやしむべき金銭に眼が眩み、官を去って商人になるとは実に呆れる。今まで君をそういう人間だとは思わなかった。と言って忠告してくれた。その時私は大いに玉乃を弁駁し説得したが、私は論語を引き合いに出したのである。趙普が論語の半ばで宰相を助け、半ばでわが身を修めると言ったことなどを引き、私は論語で一生を貫いてみせる。金銭を取り扱うが何ゆえいやしいか。君のように金銭をいやしむようでは国家は立たぬ。官が高いとか、人爵が高いとかいうことは、そう尊いものでない。人間の勤むべき尊い仕事は到る処にある。官だけが尊いのではないと、いろいろ論語などをひいて弁駁(べんばく、他人の言論の誤りを指摘すること)し説きつけたのである。そして私は論語を最も瑕瑾(きず)のないものと思ったから、論語の教訓を標準として、一生商売をやってみようと決心した。それは明治六年の五月のことであった。
それからというものは、勢い論語を読まなければならぬことになり、中村敬宇先生や、信夫恕軒先生に講義を聴いた。いずれも多忙なものだから、終わりまでは成し遂げなんだが、最近からは大学の宇野さんに願ってまた始めた。主として子供のためにやっておるが、私も必ず出席して聴き、そして種々と質問し、また解釈について意見が出たりして、なかなか面白く有益である。一章一章講義し、皆で考えて本当に分かって後、進むのだからなかなか進まないが、その代わり意味は善く判って、子供なども大変に面白がっている。
私は今までに五人の手で論語を講究しているが、学問的でないから、時には深い意味を知らずにおることがある。例えば、泰伯第八の「くに道あって貧しくかついやしきは恥なり、邦道なくして富みかつ貴きは恥なり」の語のごときも、今となって深い意味を含んでいることを知った。 このたびは論語を委(くわ)しく攻究しておるので、いろいろな点に気がついて悟るところが多い。しかし論語は決してむずかしい学理ではない。むずかしいものを読む学者でなければ解らぬというようなものでない。論語の教えは広く世間に効能があるので、元来解りやすいものであるのを、学者がむずかしくしてしまい、農工商などの与かり知るべきものでないというようにしてしまった。商人や農人は論語を手にすべきものでないというようにしてしまった。これは大なる間違いである。
かくのごとき学者は、喩えばやかましき玄関番のような者で、孔子には邪魔者である。こんな玄関番を頼んでは、孔子に面会することはできぬ。孔子は決してむずかし屋でなく、案外捌(さば)けた方で、商人でも農人でも誰にでも会って教えてくれる方で、孔子の教えは実用的の卑近(ひきん、身近なこと)の教えである。
最近は仕事柄、人間中心設計やマーケティングを実学として学んだり実践したり大学で教えたりしているのですが、渋沢栄一先生が論語や算盤に見出したのは、人間中心なマーケティングを使った商売による富国なんだなと気付かされます。
今日も正統派マーケティングというタイトルのオンラインセミナーを受けたのですが、例えばオンラインマーケの宣伝でやたらと「集客」という言葉を使うが、「集客」というのは販売する側が真ん中にあってお客が周りから集まってくる天動説であって、正統派マーケティングではお客様はお客様自身のニーズ(必要なこと)とウォンツ(欲しいこと)に従って購買するわけなので人間中心であり地動説であるようなことをおっしゃっていました。
岡崎市の精密板金メーカーである株式会社アイザワという会社が、プライベートブランド「プラスマニア」を立ち上げて他にない手軽に利用できるソロキャングッズを販売しているのですが、それがまさに価値を産むブランディング2要素である「ユニークネス」と「ベネフィット」を兼ね備えた差別的価値を持つ商品なのです。
プラスマニアさんには大学のゼミの学生のインターンを受け入れてもらっている関係もあるので、別の方の仕事の関係で縁のあるヨドバシカメラに紹介したところ、ヨドバシの一流のバイヤーさんはやはり敏感に反応されて、約2週間ほどでヨドバシ.comで販売するに至りました。
自己中心やプロダクトアウトになることをやめて、ご縁を大切にしながら自然体をつらぬき、自分が得意な分野を生かし、自分が使いたいと思うものを信じてものづくりしたものを丁寧に説明して誠実に商売していくことが、長く愛される商品作りに大切なんだろうなと感じる今日この頃です。
本節を読みながら自分の生き方に間違いがないことを確認できたというお話でした。