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論語と算盤⑨教育と情誼: 2.現代教育の得失

昔の青年と今の青年とは、昔の社会と今の社会の異なるがごとくに異なっている。余が二十四、五歳の頃、すなわち明治維新前の青年と現代の青年とは、その境遇、その教育を全然異にしておるがために、いずれが優りいずれが劣っているということは、一口には言い現せない。しかも一部の人士は、昔の青年は意気もあり、抱負もありて、今の青年より遥かに偉かった。今の青年は軽浮で元気がないというが、一概にそうばかりも言えまいと思う。何となれば、昔の少数の偉い青年と、現今の一般青年とを比較し来りて、かれこれ言うことは少しく誤っている。今の青年の中にも偉い者もあれば、昔の青年にも偉くない者もあった。 維新前の士農工商の階級は極めて厳格であった。武士の中にも上士と下士というがごとき階級があり、百姓町人の間にも、代々土地の素封家で庄屋を勤めているような家柄と、普通の百姓、町人とは、自ずからその気風教育に異なる所があった。かくのごとき有様であったから、昔の青年といっても、武士と上流の百姓、町人と、一般の百姓、町人とは、その教育も異なっていたのである。
昔の武士及び上流の百姓、町人は、その青年時代に多く漢学教育を受けたもので、初めは小学とか孝経とか近思録とか、さらに進んでは論語、大学、孟子等を修め、一方、身体の鍛錬とともに武士的精神を鼓吹したものである。しかして一般の町人、百姓は如何なる教育を受けたかといえば、極めて卑近な実語教とか、庭訓往来とか、また加減乗除の九九等を学んだに過ぎない。したがって、高尚な漢学教育を受けた武士は、理想も高く見識もあったものであるが、百姓、町人は通俗な手習いに過ぎなかったので、概して無学者が多かったのである。しかるに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別なく、悉く教育を受くることとなり、すなわち岩崎、三井の息子も九尺二間の長屋の息子も、皆同一の教育を受くるという有様で あるから、その多数の青年中の品性の劣等な、学問のできない青年のあるのは、蓋し止むを得ないことである。ゆえに今の一般の青年と、昔の少数なる武士階級の青年とを比較して、かれこれと非難するは、当を得ないことである。
現今でも、高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色のない者がいくらもある。昔は少数でも宜いから、偉い者を出すという天才教育であったが、今は多数の者を平均して啓発するという、常識的教育となっているのである。昔の青年は良師を選ぶということに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山のごときは、中江藤樹の許へ行って、その門人たらんことを請い願ったが許されず、三日間その軒端を去らなかったので、藤樹もその熱誠に感じて、遂に門人にしたというほどである。その他、新井白石の木下 順庵における、林道春の藤原惺窩におけるがごときは、皆その良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。
しかるに、現代青年の師弟関係は、全く乱れてしまって、美しい師弟の情誼に乏しいのは寒心の至りである。今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ。学校の生徒の如きは、その教師を観ること、あたかも落語師か講談師かのごとく、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒として有るまじきことを口にしている。これは一面より観れば、学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接するためであろうが、すべて今の師弟の関係は乱れている。同時に教師もまた、その師弟を愛しておらぬという嫌いもあるのである。
要するに、青年は良師に接して、自己の品性を陶冶しなければならない。昔の学問と今の学問とを比較してみると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識を得ることにのみ力を注いでいる。昔は読む書籍その者が、悉く精神修養を説いているから、自然とこれを実践するようになったのである。修身斉家と言い、治国平天下と言い、人道の大義を教えたものである。
 論語にも「其の人と為りや、孝弟にして上を犯すを好む者は鮮なし。上を犯すことを好まずして乱を作すを好む者は、未だ之有らざるなり。」といい、「君につかえてよくその身を致す」といって、忠孝主義を述べ、且つ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させるようにし、また礼節を重んずるようにし、あるいは勤倹生活の貴ぶべきことを教えたものであるから、昔の青年は自然と身を修むるとともに、常に天下国家のことを愁い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶという気風が盛んであった。これに反して、現今の教育は知育を重んずるの結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学、大学に進んで、益々多くの智識を積むけれども、精神の修養を等閑に付して、心の学問に力を尽くさないから、青年の品性は大いに憂うべきものがある。
一体現代の青年は、学問を修める目的を誤っておる。論語にも「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」といって嘆じてあるが、移してもって、今の時代に当て嵌めることができる。今の青年はただ学問のために、学問をしているのである。初めより確然たる目的なく漠然と学問する結果、実際社会に出てから、われは何の為に学びしやというがごとき疑惑に、襲われる青年が往々にしてある。「学問すれば誰でも皆偉い者になれる」、という一種の迷信のために、自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする結果、後悔するがごときことがあるのである。ゆえに一般の青年は、自己の資力に応じて小学校を卒業すると、それぞれの専門教育に投じて、実際的技術を修むべきである。また高等の教育を受くる者も、まだ中学時代において、将来は如何なる専門学科を修むべきかという、確然たる目的を定むることが必要である。浅薄なる虚栄心のために修学の法を誤らば、これ実に青年の一身を誤るのみならず、国家元気の衰退を招く基となるのである。

本節では、過去と現代の青年、教育、社会の変化を論じています。渋沢栄一先生は、明治維新前の青年と現代の青年が、境遇や教育に大きな違いがあるため、一方が他方より優れているとは一概に言えないと主張します。昔の青年、特に武士や上流階級は漢学教育を受け、高い理想と見識を持っていたが、一般の町人や百姓は基本的な教育しか受けていなかった。現代では、階級に関係なく全ての人が教育を受けるようになり、教育の平等が実現したが、これにより学問ができない青年も増えたと述べています。

先生はまた、昔の青年が良い師に出会うことに苦労し、師弟関係を重視していたのに対し、現代の青年は師弟関係が乱れ、尊敬が欠けていると指摘します。教育の目的についても、昔は精神修養に重点を置いていたが、現代は知識の習得に偏っていると述べ、青年たちが学問の本当の目的を見失っていると憂慮しています。青年は自己の境遇に合った教育を受け、実践的な技術を学ぶべきだと主張し、青年の誤った学問追求が国の衰退に繋がると警告しています。

昭和のオヤジが「いまのわかいもんは…」と昔よく言っていました。今では死語になっていますが、現代の中堅オヤジも、ひいては中堅オバハンも心の中で思っているけど、すぐにパワハラと訴えられてしまうので我慢しているのだろうなと思います。ただ、日本の武士道教育を捨てて明治維新以降西洋思想を鵜呑みにしてしまったブルジョアが採用した教育が日本国民全体のレベルを低下させたのちでは、オヤジもオバハンも若者も本質は同レベルな気がします。

別の機会に書こうと思いますが、小林秀雄と岡潔の「人間の建築」という書籍にもおなじようなことが書かれています。またタイミングよくもぎせかちゃんねるで浜崎洋介先生がこの辺をわかりやすく解説してくださっていました。

本質は日本的な武士道教育の欠如であって日本人的身体感覚や情緒の欠如によるものだと思います。

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