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お笑い大惨寺超短編競作第一回選評結果  題「大惨寺事観光ガイド」

●2024年1月9日発題分の結果です。表彰は後日行われます(日付未定)。
兼題:超短編「大惨寺事観光ガイド」
出題:タカスギシンタロ
題「名刹「大惨寺」の見どころを500文字の物語に仕立ててください。タイトルは自由です。「超短編」とはごく短い文章でつづる物語。今回は500文字以内でお書きください」
応募数:23件
1、出題者による撰
◎最優秀作品
「ほどほどの泉」   羯磨
⚪︎優秀作品
「大惨寺の別の顔」    棗絽
「笑い誘う名刹大惨寺」  植木屋
「事抜き地蔵」    珍ぬ
「無題」    龍雪
△佳作
「禿翁地蔵縁起」    椿亭八枝
「大惨寺観光案内」    御殿場の凸
「泰山寺の危機」    海音寺ジョー
「大惨寺」    永子
「私が大惨寺について語るなら」 ゴンタ
「流れ星ビバップ」    空虹桜
「千日笑い観音」    痴喜笑
●総評(タカスギシンタロ 超短編作家)
 大惨寺には鮫漫坊の俳号で参加しているタカスギシンタロと申します。大惨寺では一修行者ですが、超短編のお題のときは選者をつとめさせていただいております。どうぞよろしくお願いします。
 さて、かつて西崎憲さんをゲストに超短編文学のイベントを開催したことがあります。そのときのお題が、架空の町を舞台にした「ひかり町ガイドブック」というものでした。どうも、このガイドブックというフォーマットが創作意欲をそそるらしく、良作が集まった記憶があり、今回もその事例にあやかってガイドブックをお題にさせていただきました。狙いは的中し、すばらしい作品が送られてきて、してやったりです。
 ところで、いったいなぜお題があるのかというと、そもそも比べることがむずかしい物語を評するための手がかりとすることがひとつ。そして大惨寺をお楽しみいただいている皆さんにはとっくにお分かりだと思いますが、自分の発想を超えたアイデアが生まれることも大事な要素です。
 物語は本来的に自由であり、優劣がつけられるものではありませんが、これは座の文芸。知的な遊びとして気楽にお楽しみいただければと思います。

【短評】
◎最優秀作品 「ほどほどの泉」  羯磨

観音、阿弥陀、宣教師、マリア様まで繰りだして、アレがアレしてアレとなる様を描いた大胆な書きっぷりが見事。もはや読み手の意識は名所「ほどほどの泉」へと飛び込むしかないではないか。どこかとぼけた口調が馬鹿馬鹿しくも真剣な修行の場、大惨寺のテイストにぴったりで、未分化の事物が分節を重ね、ついには言葉遊びにまで至るという、魅力的なガイドに仕上がっている。

〇優秀作品
「笑い誘う名刹大惨寺」   植木屋
幼児は日に三百回笑い、大人はたったの十五回という指摘が心に刺さる。やわらかな笑いを誘う作品。

「事抜き地蔵」   珍ぬ
 刺抜き地蔵ならぬ事抜き地蔵という発想がすばらしく、しかもジャコメッティもかくやの極細だというからたまらない。
「無題」   龍雪
着地しない靄の石段が象徴する、大惨寺の千日修行も、まずは一歩から。幻想的な描写が印象的。

「大惨寺の別の顔」   棗絽
彼岸と此岸を花でつなぐ、大惨寺のやさしい顔が垣間見える良作。

△佳作
「禿翁地蔵縁起」   椿亭八枝
「影と影を重ねるとどうなるか」「ヌバタマの木漏れ日」といった表現が作品の謎めいた魅力を支えている。

「大惨寺観光案内」   御殿場の凸
鹿、熊、猪も現れる山中の寺の問答が難しくもおもしろい。

「泰山寺の危機」   海音寺ジョー
 由緒ある古刹からソーラーパネルへ至りバイデン大統領に着地するぶっ飛び方がすごい。

「大惨寺」   永子
 軽く大惨事に遭うことで厄除けで
きるという発想がポジティブすぎてむしろ怖面白い。

「私が大惨寺について語るなら」   ゴンタ
 長い長い階段が大惨寺の神秘性を見事に表現している。

「流れ星ビバップ」   空虹桜
 伝統とポップが融合せずに混交するさまをそのまま味わいたい作品。

「千日笑い観音」   痴喜笑
 読まずに遠くから眺めるだけでもオノマトペが目に飛び込んでくる、タイポグラフィとしても楽しい。 

以上
2、互撰(大惨寺本院、分院、奥ノ院合同) 
<一番人気作品> 3作品 
「大惨寺の別の顔」  棗絽
「無題」  緑青
「無題」   わさ柱
<次点人気作品> 同列5作品 
「大惨寺」   永子
「ガイドの花子さん」 楕円
「私が大惨寺について語るなら」ゴンタ
「インバウンド『大惨寺』」 薄墨桜餅
「夜明け前の大惨寺」 破綻

●最優秀作品
「ほどほどの泉」 羯磨 最優秀作品
縄文時代から伝わる名札・大惨寺の奥、巌窟に湧き出る泉は「ほどほどの泉」と言われている。
 寺の下女がある朝、水汲みに泉にいったところ、美しい人物が立っていた。実は観音菩薩だったのだが、下女は学がないために「ARE」と呼んだ。 「アレ」では困る観音様はここに御堂を建てるよう告げたが下女はよくわからない。観音様は阿弥陀如来に下生願ったが下女は阿弥陀様のことも「アレのアレ」としか呼べず、「アレのアレ」が出る泉として有名になった。
 阿弥陀様は長い修行の年月にないほど苛立ったが、下界の人間は弥陀の本願以上に愚かなもので、
「あー、あれあれ」と物名を忘れる者たちが救済と宥しを求めて熱狂して参拝するようになった。 
明治になり、耶蘇の宣教師はこの話を聞いて、ルルドの聖母が日本にも出現したと直感し住職に伝えた。住職は早速インバウンドでひともうけしようとしたが、宣教師が言ったルルドという言葉を忘れてしまった。やけくそで「ホドホド」と言ったところこれが伝わり、いまでは人間の愚かさを救う水が湧く泉として有名になった。

●優秀作品
「大惨寺の別の顔」 棗絽
※互選最優秀作にも入選
山茶花の花びらが落ちている。少女が二人しゃがみこんで、白とピンクの花びらを交互につないで首飾りをつくっている。陽が傾いてくると、すぐそばの庫裡から里芋汁の匂いが漂ってくる。餅もあるよーと言わんばかりにデコピソが跳ねながら迎えにくる。
正月明けには、本堂わきの欅の木の幹にかじりついて、枝に引っかかった凧を取ろうとしていた少年がいた。夏には、風通しのよい山門の陰で涼む母子を見かけた。少年も母子も今はいない。長くて2週間、ほとんど4、5日で姿を消すのだ。
大惨寺は出入り自由の寺である。門番もいなければ警備員もいない。修行をしたい者も仏に祈りたい者も故人と会いたい人も、ただただ散策をしたい人も、追っ手から姿を隠したい人々も受け入れる。だが、逃がすものかと追いかけてきた、微笑むことを失くした者の目には、その山門は映らない。
山茶花の首飾りをした姉妹も、明日には新しい家族のもとに旅立つのだろう。

「笑い誘う名刹大惨寺」 植木屋
 幼児は日に三百回も笑うといいます。大惨寺では夏休みの時期に寺子屋を開いておりまして、親御さんが子どもを連れていらっしゃるんですね。それはもう賑やかなこと。山門をくぐって道なりに進むと、お地蔵さんがずらりと並んでいて、その数百五十体です。いずれも和やかなご尊顔で、それを見た子は笑顔になるんです。一歩進んではにっこり。また進んではにっこり。その先も向こうでも笑顔がやまずに、もう弾けだします。わけもなくその場が楽しいんでしょう。笑いの渦が参道を上ってきますから、ああ今年も皆来たなとすぐにわかる。そこでお母さん方はどうかと覗いてみますと、渦に巻かれて手を引かれてね、大変そうです。坂道ですしね。走り出した子が転ばないかひやひやもするでしょう。皆さん本堂へ着いてから、ほっとされております。
 実は大人が笑うのは日に十五回くらいだそうで、わたしも数えてみたら今日は午前に一度あったかどうか、心許ない笑いの数です。皆さんも幼児にならって、笑いの渦に巻かれて参道を往き来してみてくださいな。この夏三百も、ただただ笑う一日を大惨寺でお過ごしください。

「事抜き地蔵」珍ぬ
 ――おや、すごい剣幕でどうなされました?ほお、事抜き地蔵があると聞いて来たがどこにもないと。わかりますわかります。拙僧がご案内しましょう。
 ――不都合な事や忘れたい件とかを思い念じながら事抜き地蔵を撫でると、そんな事実は綺麗サッパリなくなるご利益がございます。いつ頃寄贈されたかは定かではございません。ほれ、あちらに祈願されている方々が。
 ――はい?なんで何もないところでしきりに両手を上下に動かしているんだ、と。見えませんかね。事抜き地蔵は超極細でして、何度も撫でて見えないくらいまで細くなっております。確かジャコなんとかとかかんとかメッティとかいう石工が作ったと聞いております。
 ――はい?じゃあなんで何箇所も何十人もバラバラに同じことをしているんだ、と。寄贈されたのは観音菩薩の変身になぞられて三十三体ございます。どうぞどうぞ、お好きな地蔵様をお撫でください。
 ――そうですそうです。お忍びで大物政治家や大御所芸能人もお越しになり撫でております。ただ……大方の方はしばらく経って何事もなく存在が消えております。
 はてさて、一体何を撫でておったのか、ねえ?

「無題」 龍雪
 吐く息が白い。テンポよく小さな長い雲のような塊が、目の前を
横切る。その先に、所々苔が模様を成す、湿った石の階段が続く。

 深く吸った息をため息して、足を止めた。樹齢の長い杉達が、剥けた肌を剃らせながら空に伸び、常緑の先には青空が清々しく広がっている。
 冷たい空気が火照った身体を宥めてくれるのを感じて、気力がみなぎる。視線を前に戻すと、階段の先に濃い靄がかかっている。
 「来たか。いくつ目だっけ?」その階段の表面を舐めるように探す。「あった」中央付近に線が削られて輪郭がぼんやりとした蓮の花が彫られている。88段目の証だ。
 さあ、考えろ。笑えることだ。腹の底から愉快になるような、面白いこと。
 幼稚園の時に友達が用水路に落ちた話、いや、だめだ、もっと後味のいい笑いだ。それに、これは3回目で受け取ってもらえず、3回目を昇り直しただろう?
 校内バスケ大会で、優勝してみんなで抱き合い、笑った。違う!爽やかすぎる。もっと愉快な笑いだ。

 試しに足を靄の中に入れてみたが、足は着地しない。88段を昇り、愉快な気持ちで、次の88段の一歩目を踏む。それを88回。
 大惨寺詣は、深刻な心境を愉快マインドに切り替える行程なのだ。

「大惨寺の別の顔」  棗絽
 山茶花の花びらが落ちている。少女が二人しゃがみ
こんで、白とピンクの花びらを交互につないで首飾り
をつくっている。陽が傾いてくると、すぐそばの庫裡
から里芋汁の匂いが漂ってくる。餅もあるよーと言わ
んばかりにデコピソが跳ねながら迎えにくる。
 正月明けには、本堂わきの欅の木の幹にかじりつい
て、枝に引っかかった凧を取ろうとしていた少年がい
た。夏には、風通しのよい山門の陰で涼む母子を見か
けた。少年も母子も今はいない。長くて2週間、ほと
んど4、5日で姿を消すのだ。
 大惨寺は出入り自由の寺である。門番もいなければ
警備員もいない。修行をしたい者も仏に祈りたい者も
故人と会いたい人も、ただただ散策をしたい人も、追
っ手から姿を隠したい人々も受け入れる。だが、逃が
すものかと追いかけてきた、微笑むことを失くした者
の目には、その山門は映らない。
 山茶花の首飾りをした姉妹も、明日には新しい家族
のもとに旅立つのだろう。

●佳作
「禿翁地蔵縁起」 椿亭八枝
 毎日通る、大惨寺境内の路傍に、気になっている像がある。果たして、これは観音如来像の一種なのか、その名の通り禿翁地蔵なのか、読み方もだがその由来が気になっている。おまけに、今朝、映画好きの妻の出した「人生の材料は何か」「影と影を重ねるとどうなるか」という謎かけも、益々白頭を悩ましている。

 由緒書きによれば、禿翁は紀州の高僧で、この像は、
安芸の国広島の元安川べりのお寺から大惨寺に移設されたようだ。禿は、「とく」「かむろ」とも読み、意味は、「おかっぱ」から「はげ」に至ったらしい。

 この像は、広島原爆の大惨事を潜り抜け、今はここにひっそり立っている。そのお顔も頭髪も閃光で皺だらけになり、もう判別もできないが、さぞ「徳」がお有りだったんだろう。

 ところで、地蔵と呼ばれ出したのは、どんなご利益からなされたのか、気になってきた。

 どなたが、大惨寺に移設されたのか、もだが、禿翁地蔵のお陰だろうか、意味は不明確だが、突然、人生をパーフェクトに近づける皺だらけの役者は、メイドオブ「ヌバタマの木漏れ日」というセリフが頭をよぎった。

 こりゃあ、春から縁起がありそで、なさそで、「早起
き散歩も、山門の禿」と思わず笑って頭を掻いた。

「大惨寺観光案内」 御殿場の凸
 大惨寺観光案内である。
 人家と動物たちの棲み処の境にあるので、時に自然との共生を強いられる。
 鹿が目の前を疾走しても、騒がず慌てずやりすごす胆力も必要だし、熊が飛び出ても、熊の気力に負けず目を凝視して、後ずさりしながらやり過ごす機知も必要だ。猪は、思いのほか小回りがきくことも知っているような人が望ましい。
 実は、奥の院での修業は、かなり熟慮を要する。
 「私は生きているんでしょうか?死んでいるんでしょうか?」の問いに、答える。
 また、時には「私は、私の存在を認識できない。」と
の訴えに応えるには?
 これらにこたえる自信がある方は、どうぞおいで下され。
「大惨寺の不都合な真実」魔が差す藤丸
 何の為に建てられたのか、誰も知らない。そこでは、千日回峰行を愉快にする為、短刀に代え、実芭蕉を懐に忍ばせるのは許される。
 可笑しみ、諧謔が感じられれば良く、笑い死に出来れば本望とする輩の間では大人気。そんな大惨寺が20数年ぶりの大改修で、ウルトラマンの様にシンが付いた。俗に言う式年遷宮で、エンターテインメント性だけでなく、知恵比べの部分も刷新され、江戸雑俳もあるという。
 参道の両脇に、黄金に輝く洒落た頭蓋骨の列が並ぶ。先へ進むと南大門だが、焼肉は売っていない。精進料理が振舞われるだけだ。
 だが、笑いに一家言や腹にイチモツの猛者達は、蜂の一刺しで笑いを取ろうとやって来る。
 そこを抜けると中門、左右に狛犬が、神仏習合なのか、「うっ」「ふんっ」と立ち匂う。
 お重の塔を抜けると、蓮池に浮かぶ本堂で、蓮魂緊張の糸で繋がれていて、高い階段を上る必要がある。切れると笑いが噴き出す。
 本堂の中には、中古の笑い上戸と蛙の下戸がいて、奥の圧巻塀で囲われた座敷楼には、大阿闍梨の頭を叩きながら、徳川夢声ばりの声の檀家総代の出武将とジャイアン似の筆武将が、カメムシを噛んだ様な顔をして読経を詠んでいるそうだ。

「泰山寺の危機」 海音寺ジョー
 血の雨が降る
 そんないわく付きの荒れ寺だった。
 平安時代からの由緒ある、古刹ではあったが物騒なので歴史の闇に葬られ、知る人ぞ知る裏観光スポットとして何とか経営的に維持でき、破損を逃れ令和の世まで続いた。とは言え、住職の高齢化と檀家の核家族化が進み、遂にここ泰山寺、通称大惨寺の運命も風前の灯火となった。

 全身どす黒いスーツを身に纏った小太りの小男がふらっと現れたのは、まさに住職が清算手続きのため「tera・com」をネットでググっていた矢先だった。
 男はソーラーパネルのセールスマンだった。此処ほどの立派な瓦屋根だったら、相当の電力節約になりますよ、と強弁され住職は戸惑った。「いやウチは血の雨が降るので、逆にな、お荷物じゃよ」「それはあの、ただの伝説でしょ?」強引に口説かれ、結局大惨寺の屋根はびっしりパネルに覆われてピカピカになった。令和五年の電気法改正で低圧太陽光発電のコストが上がり、うまく余りものを押し付けられた形だが、それでも毎日水道代だけでお風呂に入れるようになり、住職は有り難がった。
 お昼のニュースを見ると、米国の売電大統領の支持率が急落していた。

「大惨寺」 永子
 伝説、というか、都市伝説みたいなもんです。建立されてからまだ百年も経ってない。伝統があるとは言えないでしょ、お寺としては。
 でも、パワースポットだか心霊スポットだか、一部では有名らしいですね。私も行ってきましたよ。まあ、興味本位ですけどね。
 え? 御利益あったかって? ええ、噂どおりでした。
 お参りした夜、期限ぎりぎりのレポートを書いてるときにコーヒーをひっくり返してしまってレポートも資料もびちゃびちゃ。いやぁ大惨事。
 それのどこが御利益なのかって? よくあるでしょ、出がけにトラブルがあって電車に乗れず、そのおかげで事故に遭わなかった、なんて話。参詣者は軽く大惨事に遭うことで厄除けできる、という噂です。
 まあ、コーヒーをこぼさなかったらどうなってたのかを知ることはできませんから、ほんとに厄除けできたのか、単に不運だったのかはわかりませんがね。でもダイイチジからダイニジは二十年ほどだったのに……まあ、まだ百年も経ってませんけど。御利益あると思っていいんじゃないでしょうかね。

「私が大惨寺について語るなら」ゴンタ
 大惨寺について知っていることを話そう。
ここは長い階段の上にあり、下からは見えない。朝の日課は夜明け前、一番鶏よりも早くポンと大音量とともに問答が始まる。管主様はいらっしゃるようで、大きな笑い声が下まで響いてくる。でも、他の人の声は聞こえない。今の伽藍は何度か建て替わり、元々は別の場所にあり、ただ今第三次発掘中と階段下の立て札にある。
 また、境内犬がいると聞いてる。「デコピソ」「デコピソ」と大きな声はするが、鳴き声は聞こえてこない。あまりにも階段が長すぎて私は途中でめげてしまった。この寺は実態があるのかないのか、不思議な存在なのだ。
「流れ星ビバップ」 空虹桜
「ヤバいよヤバいよ。落ちるよ落ちるよ」
 流れ星なのだから当たり前だろ? と声をかけると、慌てん坊の流れ星は慌てん坊だから、目的地を覚える前に宇宙塵を飛び出してしまったと言い訳するので、思い出せよ! と、思わずノリツッコミしてしまうが、しかし、流れ星は慌てん坊だから「無理だよ無理だよ。ヤバいよヤバいよ」
 と、聞く耳を持たない。だから慌てん坊なんだよ! と思う間に地上はだいぶ近づいて、周りの人たちも慌てん坊の流れ星に気付いてしまうから、やんややんやと慌てはじめると、慌てん坊の流れ星だけでも大変なのに、慌てん坊が複数いてはややこしいことこの上ない。
 なにか良い手は無いか? と考えた末、近くの門前町の参道になら胴体着陸・・・出来る?
「いいのいいの? 落ちるよ落ちるよ」
の声は、ドップラー効果で低くなり、慌てん坊の流れ星は「山門」に落ちた。
 そうして、この寺が「大惨寺」と呼ばれるようになったのは真っ赤な嘘だが、三代前の住職はこの話を面白がって宿坊「慌天坊」をはじめたのは本当のお話。

「千日笑い観音」 痴喜笑
 ひぇひぇひぇ……お前さん方ぁ、大惨寺にお参りかぇ。こんな金輪の際にあるよな妙な寺に、よくこそ……この、無限に広い境内の、無数の名物の、いったい何がお目当てかえ。なに「千日笑い観音」。ひぇ、わしは何十年とここでガイドをしておるが、あ、アレをみ、ぶひ、見たいという恐れ知らずは、久々よ。ぶふっ、ぶ。ほんとうにアレを見たいのか。なに、一目見れば千日笑い続けるなど嘘じゃと。何を言う。わしは何度も見たが、そ、ひひひ、そのたびに大変な……そんなに見たいのか。どうなってもしらんぞ。さ、ついてまいれ……「千日笑い観音像」、開祖・扁舟さまの作と伝えられ、見る者ごと、見るたびごとに、ちがうお顔を見せると言われ、ひひ、ておる……ここじゃ。よいか。開けるぞ。ほんとうによいのじゃな……ぶ! どひひひひひひぶひぇぐほほほほほほほほひゃひゃひゃし、しん、心臓が、だ、ばは、誰ぞ人を、だ、あひ、ひゃひゃひゃ、だ、ぶ、だれか、でびゃぶやぶや、誰じゃ、ぼ、坊さんなんぞ縁起のわ、どはははは、縁起が、わ、みひひひ、なに、て、寺には、坊さん、しか、おらん? ば、ばはははははははははははははははははははははは
●その他の参加作品
「無題」 緑青
吐く息が、視界を白く遮る夜。
薄い窓ガラスにインクを垂らしたような、ぼんやり
と光る水玉模様。それを見つけた時から、僕の大惨寺への参拝がはじまった。

篠懸けの並木、薄暗い辻、虫の食った電柱。
なんてことのない一画に、その伽藍はある。
早朝の肌を切るような寒さのなか、気になって伽藍の方を覗こうとすると、なにやらお経が響いてきた。
ここの住職だろうか、耳を澄ますとお経の合間に大きな高笑いが紛れこんでいる。
その豪快な笑いは、まるで親父の背中のようで、不思議と安心して聞いていられる。
そうして経文が唱え終わってから、しばらくすると暗かった伽藍に、小さな明かりがポッツ、ポッツと灯っていた。

しだいに灯りはひとつ、またひとつと増えていく。
遠目から見れば、それはまるで篝火のようだ。
そっと近づいてよくよく目を凝らせば、炎の中には含み笑い、薄ら笑い、せせら笑い、作り笑い、苦笑い、思い出し笑い、独り笑い
いろんな笑いであふれている。

その篝火に、冷たくなっていた手をかざしてみる。
―暖っかい
僕も思わず、笑みがこぼれた。
「文秋砲」 さいせんばこ
 ほどよく晴れた日には、小さなお堂の真上の大きな空に三蔵法師のほっそりした立ち姿が見えるという。境内にはお堂に覆いかぶさる椨の木。毎朝、奇天烈さで人々を熱狂させている「お題」なるものの書かれた葉を一枚落とす。
 21世紀も終わろうというこの時代、そんな呪術とも幻覚ともつかないようなことが起こってなるものか。科学と正義と道徳を守る我が「文秋」取材班の目はごまかせない。泣く子も寝ている丑三つ時、闇夜に電子音が微かに響いてくる。ソラ見たことか。
 お題を吐き出していたのは大喜利お題発生装置『大入道2000』というAIで、3Dプリンターを使って巧妙に葉っぱに見せかけていたのだ。なぜ、このような世間を欺く真似をしているのか、大惨寺にはきちんと説明責任を果たしてほしい。
――どうやらバレずにすみましたな。南無釈迦牟尼~。
今朝もひとつ、よろしくお頼み申します。
――お釈迦様の御心を理解できず、わざわざくださった無字経を突き返してしまった罰でございますからね。授かったお経と同じ一万五千百五題になるまで、喜んでお勤めさせていただきます。
――笑いのほかに世界を救う手立てはございませんからね。南無釈迦牟尼~。

「誤打」 摩天楼の売茶翁
 大惨寺境内の広大な寺院墓地はかつてゴルフ場だったそうです。ところがある大惨事が起こって…

 ある晴天日にお寺関係者3人がゴルフをしていました。お一人は信心深い檀家のダーナさん、住職のシーラン、もう一人お寺の小僧ケサです。みんな気持ちよくプレーしていましたがケサは打ち損ないをするたびに「こん畜生!クソ坊主!」を繰り返す。イライラするシーランにダーナが言う。「開山日護法道さまが見守ってくださります」。ケサはもう申しませんと約束した。ところがボールをバンカーに入れてまた叫んでしまった。「クソ坊主!」。これを聞いたシーランが言った。「もう一度言ったら日護さまはお怒りになりお前を罰するでしょう」。ケサは、最後のパットをはずしまたしても叫んでしまった。すると青空はあっという間にどす黒くなり、風神雷神降臨のごとく、目もくらむ雷光が落ちた。あたりの煙が消えたとき、びくびくするシーランとケサが見たものは、焼け焦げた檀家ダーナの姿だった。すると空から、どよめくような声が聞こえた。「ミスショットだ!クソ坊主!」

「無題」 わさ柱
あん、大惨寺はどこにあるのかって?そおだな、豪徳寺はわかるよな。すぐそこの寺よ。あそこには誰の墓があるか知ってるかい。幕末の大老、井伊直弼どのだ。そこから東にツーッと行くとな、松蔭神社ってのがある。安政の大獄で井伊どのに刑死させられた、吉田松陰先生が眠ってる場所さ。よく知ってるねって?まあ、こりゃ蘆花先生の受け売りだあな。そうそう、大惨寺はちょうど、豪徳寺と松蔭神社のあいだにあるのさ。なに、あいだのど真ん中は道だって?カカカ、そのとおり。見える奴には見えるだろうよ、大惨寺に続く、長い長い階段がね…。だが、あんたのような娘さんはよしといた方がいいぜ。なんたってあの辺りにゃ、妙な珍獣が出るって話だからな。でも行ってみたい?毎晩俺がいそいそと通ってるのが気になるって。弱ったなァ、さてはあんた俺に惚れてる?あれだな、坊主憎けりゃ袈裟まで。違うか、毒を食らわば皿まで?チキショー、うまい例えが出てこねえや。ところでお女中、あんたなんでずっと袖で顔を隠してるんだい。えッ泣いてるのかい。どうした、チキショー、いいからワケを聞かせてみろよ。ん?袖の下からバナナみてえにしゃくれた顎が覗いてるじゃねえか…

「ガイドの花子さん」 楕円
「右手に見えますのは大惨寺名物の苦渋の塔。9階建てで最上階に上がるまでに息を切らしてしまうから、そう名付けられたと言われていますそして左手に見えますのは…左手です」大惨寺のガイドをする花子は何百回と言ってきたギャグを涼しい顔で言い放つ。客はまったく笑っていないが、なぜか花子はガハガハと笑っている。境内を案内するトゥクトゥクドライバーの私は無心でハンドルを握っている。もうすぐ3年になる。雨の日も雪の日も、観光客がいない日もガイドの花子を乗せて観光案内に出発する。花子のガイドは決して上手くはない。話に脈絡がない。要領を得ない。なぜか同じ事を2回言う。話に耳を傾けてしまうとイライラが募る。心が乱される。声を荒げてしまいそうになる。それでも私は毎日ハンドルを握り、東京ドーム90個分もの広さの大惨寺を巡る。これが、大惨寺の千日回峰行なのだ。観光客はどれだけ辛い状態に僧侶が置かれているのか、目の前で見ることができる。昨日、年下の僧侶が300日目にガイドを殴りつけてトゥクトゥクを降りてしまった。私の修行は残すところあと100日。さぁ、あなたも是非私のトゥクトゥクに乗り、花子さんのガイドを聞きにきませんか?私の苦渋の表情を拝むことが出来ますよ。お待ちしています。

「大殿に登る階段横の石獅子」栗家猿朝
 友好関係があった南国王朝から寄進された高さ2mになる石獅子は、獅子発信基地として、地中からの虫の知らせをいち早く受け、歴代の管長に宏観異常現象を知らせていたという縁起絵巻が残されている。また、60年に1度、石獅子をびっしり覆う団子虫群の光景が見られ、翌日には何事もなかったかのように虫は消え、空には鳳凰が飛ぶ姿を見せると僧侶幾人かの口伝が残る。

「縁起」 **!
初手はのぉ、第三次○○で寺じゃぁなかった。なんぞ
メデタイ名をと大賛辞としたんをどこぞの悪戯者が書き換えてな。   

「インバウンド『大惨寺』」薄墨桜餅
ハ〜イ、皆さん、ちょと集まてください。
今から、リトルビット、説明。
ここは「大惨寺」。音だけだったら「大惨事」、
つまり「disaster」なのよね。最近日本はひどいからね。
日本語は、for example、同じ「音」の言葉で遊ぶのよ。
だから「What a disaster! 」という日は、
ひどい言葉を面白い言葉にして「笑い飛ばす」んよね。
そう、「laugh away」。これ、ホントに大事。
地震やTUNAMIや、政治家の悪さなんか、日本は
many、manyあるからね。笑うしかないんよね。
ここは、そんな、世間を「laugh away」するための
「wisdom」の訓練をするところなの。
だからね、
1) (賢明な判断を行う)見識、分別
2) (経験によって積み重ねられた)知恵、英知
3) (多くの人が共有する)良識、常識
4) (古代から伝えられる)金言、格言
なんかが大事、生半可、つまりhalf-hearted
attitudeじゃだめなのよね。「教養」がいるのよ!
参加する人は「Pen name」がいるんだけど、そこに
込めた「センス」と「志し」が大事になってくるわけね。
じゃ、つぎ行こうか。This way please…。

「大惨寺観光ガイド」 おタレちゃん
 お笑い大惨寺には数多の坊主がいた。大惨寺の歴史は坊主達が作ってきたと言える。一人ずつ紹介していこう。
 まず一人目が馬鹿笑顎外(ばかわらいあごはずれ)である。馬鹿笑坊は今日でいう所のゲラである。ハゲがツボであり、とにかくハゲを見ると笑いが止まらない。しかも顎がタコのように柔らかいため、ハゲを見る度に顎が外れてしまう。その事を案じ、笑いに堪える強き精神を養おうと大惨寺に入門したのであった。ところが、大惨寺にはハゲ坊主しかいないため、寧ろ前より顎が外れるようになってしまった。
 二人目は馬鹿一覚(ばかひとつおぼえ)である。馬鹿一坊は今日でいう所のガヤである。学校の先生、教習所の講師、結婚式のスピーチと所構わずガヤを入れてしまうため、喋る事を堪える強き精神を養うため大惨寺に入門したのであった。ところが、大惨事の坊主は皆一様にガヤであり、吊られガヤの数が増え、寧ろ前よりよくにぎやかしをするようになってしまった。
 三人目は馬鹿(ばか)である。
 馬鹿は、大惨寺をガストと間違えて入ってきた。ブザーが無いんですけど、と真面目に尋ねる馬鹿を見て、馬鹿笑坊の顎が外れてしまった。ベーコンとほうれん草のバターソテーが食べたかったらしい。

「夜明け前の大惨寺」 破綻
 大惨寺はすべて電脳空間のなかにある。あるところは庶民の知恵が結集して遊戯化した江戸雑排への路であり、あるところは市民の発想が飛躍して妄想化した近代種目への道である。参詣する人々は時空を超えて、すべてを相対化する連を形成するのだ。
 大惨寺の一日は、早朝から放たれるお題から始まる。境内を差配する出武相からの発声に、檀家衆の脳が活性化する。高速の言い換えを駆使し、回答を紡いで放つ。
 大惨寺には、電子通信網を通じて世界中のどこからもアクセス可能だ。
 ある人はキーボードをたたき、ある人は画面に指を滑らせる。「だいさんじ」を一発で「大惨寺」と変換できるようになれば、一人前の檀家衆だ。より研鑽を積めば、「だ」の一文字からすら、参道を探り当てれるだろう。
 日々の修練をくぐり抜け、苦渋を超えた剛の者には懸賞も用意されている。どのお題から放擲してもよい。大惨寺の門は年中無休で開放されている。まずは自らの号を編集し、颯爽とログインしてみるのだ。

●撰者による作品
「笑い地蔵縁起」 タカスギシンタロ
老師の背中を見ながら、弟子たちは座禅に励んでいた。しかし老師の後頭部には大きなほくろがあり、どうにもそれが気になるのだった。
だが弟子たちは波立つ心をそっとおさめた。
しばらくすると、蜂が一匹飛んできて、老師の後頭部についととまった。ほくろと蜂はまるで両目のようであり、頭の皺と相まって、人の顔に見えてしまう。それでも弟子たちは波立つ心を必死で抑えた。そのとき老師が口を開いた。
「どうも諸君らの心が乱れておるようだ。振り向かなくても分かるぞ。わしは後ろにも目があるでな」
これにはたまらず、弟子たちは皆、声をあげて笑った。老師は何事かと振り返る。

しかしそこに弟子たちの姿はなかった。老師は驚いたが、すぐに思い出した。いまや自分は石地蔵で、ただ五百羅漢と相対して立っているだけであることを。そして目の前の一輪の花めがけて、一匹の蜂が舞い降て
いくのを見て微笑んでいる、ただそれだけの存在であることを。
                       
笑い地蔵にはそんな縁起があるそうな。

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