研究・日本のFMラジオ放送の黎明期
●日本におけるFM放送の黎明期
私が所属する「アジア放送研究会」では、年一回、一般の方々に向けた公開形式の研究発表会を開催していますが、この資料は、2013年8月にアジア放送研究会主催の「アジア放送研究フォーラム」で川崎がおこなった研究発表の際に配布したものです。
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■はじめに
日本の放送史のうち、FM超短波ラジオ放送(以下「FM放送」)については、受信技術や送信技術の発達についての変遷以外、あまり集中的に研究されている事例が見当たらなかったので、ここではNHKと民放の本放送開始までを中心にまとめてみた。
■日本放送協会のVHF,SHF実験局
日本では戦時下中断されていた研究が再開され、1950年に放送技術研究所がSHFによるFM実験局を設けたが、これはテレビジョン放送の音声送信用の実験であった。
1「日本放送協会技術研究所」局
コールサイン JO2A
周波数:4GHz
出力:500mw FM
2「放送会館」局
コールサイン JO2B
周波数:4GHz
出力:500mw FM
(ラジオ年鑑, p40, 昭和26年版より引用)『・・・テレビジョン放送の公開は、25年から始まり、その第1回は同年3月の放送開始25周年記念展の無線実験で、技術研究所から発射した周波数100Mc帯、出力500W送信機の電波と、放送会館屋上に据付けた30W送信機からの電波を交互に日本橋三越の会場にある受像機で受けて一般の観覧に供した。この時、別に4,000Mcの極超短波のテレビジョン中継装置を使って、わが国としては初めて、銀座の街頭風景を放送会館に無線中継したので、三越の会場では、技術研究所のスタジオからの実演や、映画フィルム、放送会館のスタジオからの管弦楽、銀座尾張町の街頭風景などが受像され、連日2万人にのぼる観覧者を集めた』
テレビ放送実験に際して「NHK技術研究所」局のVHF音声波(107.75Mc)にコールサイン「JJ2B」が与えられていた。最初、1939年に免許されたテレビ実験局J2PQ(45Mc)が戦時中廃止されていたが、1946年8月29日にJ9ZMとして再交付され、その後、JX9Mに変更され、1949年1月1日のコールサインの一斉切り替えでJJ2Bとなった。
■新潟に生まれた二つの「教育放送局」
日本では、放送界とはまったく違う流れでFM放送が始められている。これは、業務用の同報通信を使った「事実上の教育放送局」であるが、放送法の範囲外であるため、放送史の中で取り上げられたことはほとんどない。
1 長岡教育放送(NEB)
呼出名称:「ながおかきょういくほうそう」
周 波 数:65.51Mc
出 力:50W (送信機は松下電器産業通信機工場製)
設置場所:長岡市立中島小学校内。
演奏所と送信所を兼ねる。録音器なども設置。
運用時間:1025~1630(中断あり).
運用期間:1953年4月16日~1977年3月
分 類:業務用固定無線局
運 営: 長岡市学校視聴覚教育研究会聴覚部委員会
機器購入費は市が半額負担、残りを各校PTAが負担した。
目 的:市内の教育向上
対 象:小学生、中学生および教師
内 容:市内の各学校に向けて教育番組、連絡番組を同報送信
この局は、主に学校に向けて放送したが、長岡市教育委員会は、家庭でも受信できるよう、家庭用ラジオ受信機装着用のコンバーターを開発し、市民向け製作講習会を開催して家庭での利用の推進した。
1955年10月、長岡市役所新庁舎(現 柳原分庁舎)に演奏所を移動し、学校放送の他児童劇団出演の放送劇等も収録・送信された。
また、1961年の長岡地震、1964年の新潟地震では災害復旧状況を送信するなどコミュニティ放送の先鞭をつけた。1964年読売教育賞を受賞。1977年3月末閉局。
2 新潟教育放送局
呼出名称:「にいがたきょういくほうそうきょく」
周 波 数:61.37Mc
出 力:50W (送信機は沖電気工業製)
設置場所:新潟県庁(演奏所・送信所を兼ねる。1階に演奏所)
運用時間:1900~1955あるいは2000~2055.
期 間:1953年8月~
分 類:業務用固定無線局
運 営: 新潟県連合青年団。
中心人物は三浦義雄。運営は五十嵐主任等計7名
目 的:社会人向け教育
対 象:新制中学卒業程度後の15~20歳までの勤労青少年および婦人層
※このほか、岡山他複数の県にも同様のFM局があったといわれている。
■「NHK FM放送実験局」開始
NHKは戦後、BBCラジオ第三放送(Third Programme)をモデルにした中波による「高級放送」を構想していたが、これをFM実験放送へと切り替え、1957年12月24日に放送会館(内幸町。送信は千代田テレビジョン送信所)、そして、1958年2月20日に大阪放送会館(送信所は生駒山)で開始した。
1 1957年12月24日 NHK東京FM実験局 JOAK-FMX 87.3MC
2 1958年 2月20日 NHK大阪FM実験局 JOBK-FMX 88.1MC
放送時間は1800~2200 日曜日は0800~22:00。
東京からの初番組は、ベートーヴェン作曲の交響曲第9番「合唱」で、ヴィルマ・リップ(s)、 エリーザベト・ヘンゲン(a)、ユリウス・パツァーク(t)、 オットー・ヴィーナー(b) 、ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮、 ウィーン・プロ・ムジカ交響楽団。1933年のモノラルで録音、米VOX原盤のLP再生。
適した中継回線がなかったため、東京・大阪とも別番組を生放送。当初は「高級放送」を意識したクラシック音楽を専門に放送したが、1960年頃、大阪実験局で昼間、歌謡曲を放送したところ好評であったため、以降、東京でも歌謡曲も放送されるようになった。その後実験局は全国に拡大。以下は本放送開始までに開局した都市の一覧。
1962年9月17日 広島 福岡
1962年12月2日 札幌 仙台 名古屋 松山 熊本
1964年4月1日 静岡 岡山 山口 高知
1964年5月1日 北九州 長崎
1964年6月1日 盛岡 秋田
1964年6月25日 旭川
1964年7月1日 福島 新潟 長野 金沢 富山 松江 宮崎 鹿児島
1964年12月2日 函館 帯広 室蘭 青森 山形 鳥取
1965年2月5日 釧路 福井
1965年3月1日 甲府 徳島 大分
1965年3月22日 高松 佐賀
1965年3月27日 北見
1965年12月16日には東京実験局でステレオ放送が始められたが、中継回線がステレオ対応していなかったため、テープネットの形をとることが多かった。また、この時から、それまでラジオ第一、第二を使っていた「立体音楽堂」などの番組が最初はFMとのパラで、そしてFMに移行する形で終了していった。
また、1969年3月1日に本放送が始まるまでは、ラジオ第二放送の教養番組をパラで放送する時間帯もあったが、これは「(Third Programme」を意識した編成実験であると考えられる。
■新聞社のニュース速報専門局構想
大正時代、ラジオの出現以来、多くの新聞社は「電波を用いたニュース速報」の事業化を試みてきたが、他業界や同業申請者との一本化や(JOAK,JOBK,ラジオ東京等)、ラジオ報道の独立(ABC,NJB等)によって、何度も資本参加しながら「直営化」することができず、新聞社発のニュース速報は実現されなかった。
そこで、大手新聞社は早くも昭和30年代の初頭には中波による小出力の直営放送を構想し、発表した。つまり、新聞社内に放送所を設け、普段はレコード音楽を放送し、随時速報を挟むという「ニュース・ラジオ」の形式であったが、やがてFMバンド実現に向けた動きが聞こえてくると、同じ構想をFMで実現させる方向へと変わっていった。
実際、1960年代に民間からの事業申請者を募ったところ、朝日・毎日・読売・産経・日経・時事通信が全国主要都市で申請を出し、ブロック紙による申請もあった。郵政省は申請一本化を勧め、新聞社による直営ニュースラジオはまたも実現されなかった。
1977年、NETテレビが「全国朝日放送株式会社」となり、愛称が「テレビ朝日」となった際、将来的に「FM朝日」の開局も目指していると発表されたが、朝日グル―プ直属のラジオネットワーク構想がこの時まだ生きていたことがわかる。
■松前重義の教育放送局構想
三つめの「始まり」として松前重義による構想をあげたい。松前重義はのちに東海大学ならびにFM東京の前身といえるFM東海を設立し、日本の超短波多重放送技術に大きな影響を与えた、技術者・官吏・政治家・教育者である
逓信省技官時代、内村鑑三主宰の聖書研究会や講演会に通っていた松前は、対プロシア戦争に敗れたデンマーク王国が「国民大学(フォルクホイスコーレ)」を中心とした開かれた教育によって再興したという話に感じ、に1934年に研究の為デンマークを訪問。これがのちの「東海大学」ならびに放送を用いた教育活動の構想につながった。また、技官時代、「無装荷ケーブル通信方式」による有線長距離電話の多容量化・高品質化を実現し、一回線で複数通話を実現させた。
この経験がのちにマルチメディア事業を推進するFM東京の姿勢につながる。
1936年、無装荷ケーブル通信方式の発明に対し電気学会から奨学祝金を受け、これを基金の一部として武蔵野に「望星学塾」を開設。のちに通信高校講座で用いられている「望星」という名称はこれを起源とする。
戦後、公職追放を解除された松前は、電気パーツ製造会社河端製作所代表河端作兵衛氏とともに1950年9月、民間放送を申請。全国向けの短波放送申請であった。
・全日本放送
申請者:河端作兵衛・松前重義
設置場所:筑波山
出力:5KW(短波放送)
また1957年には「東海大学理事長 松前重義」として、富士山頂を送信所とする超短波FM放送実用化試験局を申請した。目的は「静岡県を中心とし超短波(FM)による教育放送を実施するため」であり「青少年の教養と学力、そして国民の文化向上」を目標とした。さらに、次の理由を述べた。
(i) 送信場所として予定している富士山頂からの超短波放送の伝搬状態の調査
(ii)送信方式(マルチキャスト方式)と設備の運用方式、すなわち山頂の特殊条件を考慮に入れ遠隔制御方式を採用する等の技術方式の実用化実験
(iii)FM受信機による受信試験、方式研究、普及対策
松前は富士山頂に無人送信所を置き、遠隔操作で管理することを構想していたようだが、富士山頂という特殊条件から未解決の問題も多かった。またFM多重放送を急速に実施することも急務であるとして、これに基づく申請が行われた。
かくして1958年3月1日 東海大学FM実験局免許申請書が提出され、4月25日に実験局開設予備免許が交付された。
■民間初のFM局放送開始
「東海大学超短波実験局」
コールサイン:JS2AO
周波数:86.5Mc(1959年10月から84.5Mc)
出 力:1kW
演奏所・送信所:渋谷区代々木富ヶ谷の東海大学第二校舎内
免許交付:1958年12月26日免許交付
放送開始:1958年12月31日
この周波数は『同一地域800kcセパレーション』の方針について可否を検討するため、NHK-FM(87.3MHz)から800kc離れたチャネルが割り当てられた。1959年にはテレビ第一チャンネルとの混信を避けるため周波数を変更した。
12月31日夕、松前重義の第一声で放送局は開局。この日はベートーベン作曲「交響曲第九番」のレコードが放送された。
JS2AOの研究事項は以下の通りであった。
(イ)変調方式に関する研究(AM・FM方式とFM・FM方式との比較)
(ロ)副搬送波周波数の決定に関する研究
(ハ)混変調に関する研究
(ニ)信号対雑音比に関する研究
(ホ)各チャネルの変調度の配分に関する研究
(ヘ)マルチキャスト受信方式および受信機に関する研究
(ト)電界強度測定
■FMによる通信制高等学校開設
1959年には、FM放送を利用した通信制高校「東海大学付属高校通信教育部」設立。現在の「望星高校」。5月入学式、6月1日FM放送による高校通信教育開始。以降、インターネットと衛星放送に移行するまでFM東京時代も含め40年近く地上波を使った通信制高校講座を実施した。
また、音声多重放送を使った授業も実施されたが、受信機は市販されておらず、入学者にのみ貸与または頒布された。音声多重放送の時間中、メインチャネルのステレオ放送は通常通りおこなわれていたが、のちに文字多重放送が開始された際は、実施時間中音声多重放送は休止。授業を衛星放送に移行した際をもって、音声多重放送は廃止され、同時に文字多重放送が24時間化された。
■日本初の商業FM放送開始
JS2AOは、あくまで技術実験を目的とした非営利放送局であったが、民間放送としての運営を目指すため、1960年に実用化試験局を申請し、これを運営する「FM東海」を設立した。なお、日本の民間放送事業者で「FM○○」という名称形式を使用したのは、これが最初である。
「東海大学超短波放送実用化試験局」
コールサイン JS2H
周波数・出力:84.5Mc 1kW
愛称:「FM東海」
当初はJS2AOの一部時間を区切ってJS2HとしてCM入りで運用。のちに放送時間全体がJS2Hとなり、マルチキャスト試験放送を実施する際にJS2AO運用に切替。
<年表>
1960年 4月1日 東海大学超短波放送実用化試験局(JS2H)に本免許、放送開始
5月1日 郵政省、スポンサーを付けることを認可
5月2日 FM東海開局式
日本初の商業FM局として営業開始
6月 FM放送PRのためFM喫茶、FM理髪店を設置
8月 全日放送を開始
8月 FMマルチステレオ実験放送(FM-FM方式による)開始
1961年 7月 港区芝西久保明舟町(虎ノ門)発明会館に新スタジオ。
1963年 4月1日 通信教育部、東海大学付属望星高等学校として独立
6月25日 AM-FM方式(FCC方式)によるマルチステレオ実験放送開始
5月 「FMT室内楽団」および「FMT合奏団」結成
1965年11月1日 送出マスターを虎ノ門スタジオに移転。
FM東海時代に開始された番組は、のちにFM東京にも多く引き継がれたが、そのうち「Jet Stream」は現在も継続されている。また、現在のTokyo FM(FM東京)の開始・終了音楽は、FM東海時代のものが継承されている。
開始音楽:「シェーレンポルカ(演奏:アンゲルファミリー楽団)」
終了音楽:「Song is ended(演奏:マントヴァーニ楽団)」
■「FM放送実験協議会」「電波技術協会ステレオ委員会」と免許更新拒否問題
FM東海が、経営的に苦しい状況ながらもリスナーからの認知もえられていた1966年の年明け(1月8日) 郵政省は「FM放送の実施に必要な資料収集は終了、実用化試験局は再免許しない」と通告。これは、FM放送の実用化に郵政省がFM放送実用化の主導権を握り直そうとしたことに端を発したと考えられる。以下の国会発言からはNHKとFM東海以外に「FM放送実験協議会」という団体が設立され、技術実験をおこなっていたことがわかる。ただし、実際に電波を出したかどうかは不明。
<昭和36年5月26日第038回国会 議事録より>
逓信委員会電波監理及び放送に関する小委員会第1号 [引用]
○森本小委員 FM放送の、NHKとその他の総合的な実験放送を許可いたしておりますが、この間許可した実験放送の具体的な内容をちょっと説明願いたいと思います。
○西崎政府委員 これは、FM放送実験協議会という名前で、その構成員は、NHKと、それから民放連、電子機械工業会、それと電波塔株式会社、この四者から構成されておりまして、内容は、チャンネル・プランを作るのに必要な技術的資料をとるのが目的でございます。
(略)
○森本小委員 (略)こういうふうな実験放送は、私は郵政省自体がやっていいじゃないかと思う。というのは、これはバンドの幅、あるいはまた放送する場合に多重でやってよろしいかどうか、あるいはその他の混信状態がどうなるかということを技術的に見て、将来のFM放送の許可、またさらに具体的なFM放送のチャンネル・プランを出す際の貴重な資料になる、こう思うわけでありまして、そういう点からいきますと、今のNHKとFM東海がやっております実験放送とは、だいぶ趣が違うのじゃないか、こう考えるわけであります。こういうものは、私は郵政省の電波研究所あたりでやるのが至当じゃないか、こう思うわけであります(略)実際問題としては、こういうものこそ郵政省の電波研究所でやっていなければ、FM放送のチャンネル・プランを具体的に郵政省が出しても、それを裏づけるところの権威というものが、全く片一方に主導権をとられてしまって、こういうチャンネル・プランでなければいきませんというふうなことでは、実際問題として監督行政機関としては私は残念じゃないか、こう思うわけでありまして、この点は、私は今FM東海とかNHKがやっているような実験放送ならあえて申しませんけれども、今度のような実験放送の性格というものは、そういう点を十分に考えていかなければならぬというふうに考えるわけであります。(引用おわり)
1962年7月~10月には「電波技術協会ステレオ委員会」がJOAK-FMXを使ってAM-FM方式とFM-FM方式の比較実験をおこなった(FM東海でも同様の実験はおこなわれた)。郵政省はモノホニック放送に関しては「実用化試験局」を、ステレオホニック放送に関しては「実験局」として免許する方針を発表していた。
■「事実上の無免許」状態による放送
1968年3月末、小林武治郵政大臣が3月末付で切れるJS2H(実用化試験局)の免許更新を拒否。民放FMを設立するための準備をすすめたかった郵政省は、免許一本化の妨げにもなりかねないFM東海の実用化試験を早く終了したかったが、これに対し東海大学は他社を運営に加えることを表明して3ヶ月の更新延長を得た。しかし結局成果はあがらず6月末日「東海大学実用化試験放送局(JS2H)」の放送免許は失効。「東海大学多重放送実験局(JS2AO)」の放送のみ継続された。
しかし、大学は10年間実績と継続の必要性を盾にこれに抗い広告放送を継続(事実上の無免許状態である)。68年7月9日、郵政省は電波法違反で告発。これにより資金源であった広告スポンサーが次々と降板。東海大学は「十年にわたる実験放送の成果を評価していない」と郵政省を誣告罪で告発した。しかし最後には「FM東海の実験で培ってきた手法を認め、その従業員雇用を保証し、教育放送と東海大学の財産は新会社が継承する」という条件で妥結した。
1970年4月25日、FM東海閉局。26日からは霞が関ビルに本社、虎ノ門の発明会館に演奏所、東京タワーに送信所を設けた「FM東京」が事業を継承した。
■「FM東京」に先行して開局した「FM愛知」「FM大阪」
一方、名古屋では愛知音楽放送(エフエム愛知 JOCU-FM)が、いち早く第一声を上げた。一方、エフエム大阪(JOBU-FM)は、本社・送信所の設置場所決定で開局は難航。コールサインの順番と実際の開局順序が食い違ったのはそのためである。
FM大阪は、一時は通天閣に演奏所と送信所を設ける構想もあったが、最終的に中之島の朝日ビル内に演奏所、飯盛山にNHKと共同で送信所を設けた。開局後はまさに開会中であった万博に対応するため「外国語ガイド番組」も放送した。
■まとめ
以上、民間FM放送が本放送を開始するまでの期間をとりあげたが、FM各局がすすめている編成スタイルやマルチメディア志向は、実験時代に直接つながるものが多く、今後、新たな視点が発見される可能性が大きい。
また、70年代までは地方の街頭放送業者や音響機器メーカーが免許申請をしていた記録もあり、どのようなビジネスプランを持っていたのか興味深いところである。
■参考文献
文献:上島史郎「FM放送のチャンネルプラン」(1970)、日本放送協会「20世紀放送史 上・下」(2001)、NHK大阪放送局「こちらJOBK」(提供:山田充郎氏)、毎日新聞社「毎日新聞百年史」(1972)、讀賣新聞社「讀賣新聞百年史」(1976)、松前紀男「音文化とFM放送-その開発からマルチ・メディアへ」東海大学出版会(1996)、株式会社FM大阪「音づくりこの10年」(1980)、「エフエム東京番組表復刻版」(2013)アジア放送研究月報(2009年)、『民間放送』誌第26号(提供:平原哲也氏)
Website:History of Citizens Band Radio https://sites.google.com/site/cb465mhz/
「放送博物誌」 http://radiofly.to/
※不許無断引用・複製
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「アジア放送研究会」は、東アジア諸国(韓国、北朝鮮、中国、香港、マカオ、台湾、モンゴル、日本)の放送を専門に研究する団体です。
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