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東京都23区の変遷

 今回は東京都23区の変遷について書きたいと思います。
 私は東京に引っ越してきてまだ5年で、東京育ちの人からするともしかすると当たり前のことかもしれませんが、個人的に面白いと思ったことを書きたいと思います。

区の数の変遷

 現在の23区の原形になる行政区が設置されたのは明治11年(1878年)のこと。当時は千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区の9区の範囲に15区が置かれたのが始まりとなっています。

 9区以外の範囲は、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の6郡からなっていました。 この15区6群が現在の23区とほぼ重なります。15区外のエリアは品川などの一部を除きほぼ田園農村地帯だったようです。
 そこから18年後の1896年には南豊島郡と東多摩郡が合併し、15区5郡体制となります。さらに1932年には周辺の5郡を編入し、20の区を置くことで、35区体制となりました。現在の90歳以上東京育ちの方々には35区はなじみ深い区分のようです。(私の祖父は赤紙で戦線に送られた時以外で鳥取から出たことがないので、東京都内で戦前青春を送った方々に是非感覚をお聞きしたいです。)
 そこから戦後、戦災復興の中で1947年の3月15日に35区は22区へと統廃合されます。同年8月に板橋区から練馬区が分離する形で現在の23区が出来上がりました。

 ちなみにこの変遷は以下の表のようになっております。
 例えば港区は麻布区・赤坂区・芝区の合併によって誕生しています。なんとも強そうな組み合わせですね。

自治体名変遷

区の変遷・地名に隠されたトリビア

 これらの行政区の変遷には様々なドラマがありました。
 例えば、練馬区が板橋区から1947年の板橋区成立から半年も満たない期間のうちに分離したのは、練馬区の人たちから板橋区役所が遠すぎると苦情があったためとされています。
 そのほかにもいろいろなドラマがあります。自分のなかで面白いと持った次第適宜下記に追記をしていく予定です。

日本橋の地名

 旧日本橋区(現中央区の東側)に職場や住居、または用事がある人は日本橋の地名がややこしいと思ったことはないでしょうか。例えば一般にタクシーで日本橋までお願いしますといった際に連れていかれる場所は日本橋本町ですが、その周りには日本橋室町、日本橋小伝馬町など日本橋を冠した地名がたくさんあります。例えば人形焼や今半で有名な人形町、かつてロンドンのシティ・ニューヨークのウォール街・香港の中環と並ぶ金融街であった兜町などは、正しくは日本橋人形町・日本橋兜町となっています。

 これは実はかつては地名には日本橋の名前はついておらず、日本橋区本町、日本橋区小伝馬町のような地名となっておりました。しかし1947年に、日本橋区が京橋区と合併して中央区となる際、日本橋区の人たちが地名から日本橋が消えることを危惧し、日本橋の地名を残すべく、町名の頭に日本橋をつけたことからこのような地名となっているのです。

港区の由来

 麻布区・赤坂区・芝区が合併する際に、新しい区名をの候補として、城東区・東港区(とうこうく)の2つに候補が絞られ、その中から、東京港の発展に新区の成長を願うという意味を込め「東港区」が選定されました。しかし、東京都東港区だと似た音が重なってややこしいという意見が出たことから、港区へ改められたとのことです。

他のトリビア

 ほかにもたくさんの23区トリビアがあると思いますので、なにかありましたら是非教えていただけると幸いです。追記します。

 本日はこれまで。引き続き美術・歴史関係の記事を上げていければと思います。

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