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『花咲くいろは』のなこちと僕


今回は初めて自分の好きなアニメに関連した記事を書きます。

・花咲くいろはの衝撃

ここ最近見たアニメの中で強く印象に残った作品がある。「花咲くいろは」だ。2011年放送のP.A.WORKS制作の金沢の旅館で働く女子高生を中心に描く全26話のアニメである。劇中に登場する架空の「ぼんぼり祭り」が実際の行事として、恒例化するなど大きな反響を集めたという。

心情をむき出しにした登場人物の対立や接客業で働く矜持など、見どころは数多くあるのだが、ここでは1人のキャラクターについて焦点を当てていく。


押水菜子、通称なこち(主人公の松前緒花くらいしか呼んではいない)だ。


・他作品とは異なる、なこちのキャラクター

緒花が働く喜翆荘の同僚であり、高校の同級生に当たる彼女。当初、緒花に対して目も合わせず、そっけない。仕事に関しては先輩であるにもかかわらず、緒花に対してしっかりした説明もしない。緒花とのやり取りも反応が薄く、どこかかみ合っていなかった。そうしたこともあまりいい印象を持たなかった。

そう、この彼女はアニメや漫画によくある、自分に自信のないキャラクターだ。自分自身の感情を口に出すのが苦手で、それが大きなコンプレックスになっている。最近の例で言えば、「五等分の花嫁」の「中野三玖」。彼女も自分自身の趣味が戦国の歴史とは他の姉妹に言い出せないが、それは自分自身に自信がないから。それを主人公の上杉風太郎が励ます言動を繰り返すことで、変わっていくことになる。また、今のアニメの礎を作ったといわれる「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公「碇シンジ」もまさしくこれに当たる。母親のユイは死に、父親のゲンドウからは見放されてきた。親の愛の欠如が自己肯定感の欠如につながるという典型的なパターンであり、それがエヴァに乗る意味や人の精神性の理想を追い求めた終盤の「人類補完計画」に繋がる。

僕は今までこうしたキャラクターにある程度の理解は示すものの、極端すぎて真の意味で共感はできないといったことが多かった。ただ、この「なこち」の心情は今まで見てきたキャラクターの中で一番シンパシーを感じるものであり、個人的にこの作品の評価を大きく引き上げる要因となった。

・家の中なら人魚姫

「なこち」にスポットがあたる第18話。ここで自分自身のなこちへの印象が大きく変化した。この話ではなこちのモノローグが多く語られる。この話まで多く語られることはなかったが、彼女は4人きょうだいの長女であり、料理や幼いきょうだいの世話までこなす「面倒みのいい姉」なのだ。

妹に対して、「人魚姫」の物語を読み聞かせるシーンがある。それを受けてのモノローグ。

私がもし人魚姫だったら、王子様に憧れたりなんかしない。海の中を好きなだけ泳いで、疲れたらちょっと休憩して。だって地上は怖いもん。きっと私にとって、家は海の中と一緒なんだと思う。

家の中でなら、自由に泳げる。泳ぎを得意とするなこちというキャラクターに合わせた比喩ではあるが、これが自分の中で強く印象に残った。そう、このなこちという子は、家の中では言いたいことも強く言えるし、自信をもって振舞える居心地のよい場所なのだ。

しかし、家から一歩出れば、それは一変してしまうのだ。隣人から挨拶されても、返答が曖昧なまま家に引き返してしまったり、お客さんから質問を受けてもすぐに返答ができなかったりと。

これは自分にとって、強い共感を覚える点だ。なこちとは比べ物にはならないくらい家事はできないが、両親との関係は良好で、反抗期というものを今まで感じたことはない。弟も1人いるが、これもとにかく相性が合うのか、アニメや声優の話ばかりしている。時には人間関係における苦労話を聞かされることも多い。そのため、家にいるときは饒舌になるし、自分が嫌だと思う瞬間はそれほど感じることはない。

しかし、大学やアルバイトにおける自分はそれとはかけ離れた人間になってしまうと感じることが多い。人との会話が続かず、声のボリュームが小さくなってしまったり、会話を避けてしまうことも多い。また、アルバイトをしても、その場での指示を待ち、「はい」しか言わず、必要最低限の言葉しか発しなくなる傾向がある。こうした自分に激しく自己嫌悪することはしばしばあり、なぜ家なら自然体でいられるのに、一歩外に出るとこんなにも息苦しいのかと感じることも多い。

・友人に見せる自分は本当の自分?

第18話の劇中では、そんななこちの心境に反して、給料が上がることになる。これを給料に見合う働きができるように、変わってほしいという女将さんからのメッセージだと一方的に思い込む。

なこちは理想像についての悩みを緒花に伝える。

菜子 「家ではそれなりに納得できる私というか…本当の私だと思うんだけど…でも、外では…」
緒花「じゃあ、今私と話しているのは本当のなこちじゃないの?」

そう、気が置けない友人に対しては本当の自分ではないのか?いや、そんなことはない。自分にも、仲のいい友人は多くはないがいるし、彼らの前ではまた違った納得できる自分を見せていると思う。こうした友人の存在はなこちのような我々にとっては、心の拠り所となる。現に、緒花はこの発言後、「本当のなこち、出てこーい!」と戯れている。こうしたところに仲の良さを2人の関係性の良さを感じた。


・普段と違う自分になりたくて

その後、なこちはもらった給料とともに、緒花たちと町に買い物に行くことになる。そこで、いつもとは違う服を勧められ、衣装で変わるの一言で試着した服をまとめ買いする。しかし、服を買えても人格が変わるわけでもない上に、仕事では使えないことに気づき、なお落ち込んでしまう。

そこで、「変わるまでは無理でも、いつも通りの自分でいられたら」と行動を起こす。いつも積極的にあいさつしない彼女が職場の同僚に、朗らかにあいさつをし始める。また、荷物を通路に置いたお客さんに声をかけても、手が離せないことを見るに、「弟たちと一緒にいるときのようないつもの私で」と勝手に荷物を運ぶがそれがかえって不満を買ってしまう。

特にこのいつもしないことをしようとするのは、結構分かったりする。これがよく起こるのは、たいてい入学シーズンなど新しい出会いがあるとき。無理にウケを狙って変なことをするも、それがスベッた高校時代。また、大学のサークルの新入生歓迎期には、頑張って会話を続けようとしたりする。こうしたところもなんとなくリアルだ。


・理想の自分ではなくても・・・

上で触れたお客さんへの不手際について、なこちは女将さんに叱られてしまう。その後、なこちは給料の引き上げについて、感じていたことを正直に告げることになる。

女将さんはそれに対し、意識を高めるために給料を上げるような流暢なことはできないと語った上で、お客さんからなこちへの感謝がつづられた手紙があったことを教えられる。

なこちはお客さんに季節の花について聞かれ、即座に回答できなかったが、その後、情報を地図を手書きで記して、お客様に渡していたのだ。

そして、以下のセリフ。

女将さん「お前らしい働きを認めてくれる人がいる。だからこそ、給料を上げる。それのどこがおかしい?」
なこち「わ、私らしい?でも、本当の私はもっと明るくて…声だってもっと大きくて…」
女将さん「喜翠荘でのお前はオドオドして、声が小さいかもしれない。でも、誰も気づかないところに気づいて、あったかい心配りができる。お前はそういう仲居だ。」

見ている人はちゃんと見ている。こういう風に感謝を形にされ、頑張りを称えてくれる人がいれば、どれだけ報われるか。実際、働くにあたっては評価してくれる人がいるか、尊敬できる人がいるかによって左右される側面が大きいと思う。そうした人がいれば、仕事に精は入る。喜翆荘のスタッフが皆、この旅館で働きたいと感じているのはこの女将さんこと、四十万スイのカリスマ性が大きいのだなと同時に感じさせるシーンでもある。


こんな表情になってしまうのも頷ける。


・総括

このように、なこちは生い立ちの悪さから生まれてしまう自己肯定感の低さではない。家族の中での信頼を関係が深くない人々に向けられないだけなのだ。こうした在り方というのは、もちろん僕もだが、多くの視聴者にも共感を得るものではないかと推測している。

これは個人的所感なのだが、この「花咲くいろは」という作品は、思ったことを率直に言えたり、行動に移したりできるキャラクターとそうではないキャラクターに二分されると思っている。前者に関しては、民子となこちを無理やり友人に加えた主人公の緒花。緒花への嫌悪感をストレートにぶつける民子。また、緒花の母、皐月やそれこそ女将のスイもまさしくこれに当たる。後者が今回取り上げた、なこち。また、緒花への思いが何度もすれ違う草食系の孝ちゃんや頼りない旅館の後継ぎ息子の縁がこれに当たるだろう。緒花のように、積極的に行動して周りを動かしていく様は、見ていてとても心地が良い。しかし、それは多くの視聴者には到底できないことが分かっているからこそ、爽快感や憧れを抱く。逆になこちや孝ちゃんみたいなキャラが緒花の前に現れるとこの緒花視点の物語から見るとどうだろうか。とても鈍くさくてイライラする。けど、それが視聴者に近いキャラクターであり、あの物語の世界の中ではそうした人間になる可能性が高いということなのだ。

こうしたキャラの二分した在り方が、もどかしくも厚みのあるストーリーに変えている要因になっているのかもしれない。おそらく、緒花のようなキャラクターだけでは、多くの共感を集めることは難しいと思う。なこちみたいに実在しそうだなというめんどくさいキャラクターがいるからこそ、このアニメは面白い。こうしたシナリオやキャラ設定の上手さはあの花などを書いてきた、岡田麿里ならではのものだ。人間関係のめんどくさい部分を掘り起こして、それを剥き出しのものに変えてしまうのだ。

さて、長く書いてきたが、『花咲くいろは』の本編に対して触れず、なこちに関してのみ触れてきた。これだけだとこの作品の良さが伝わらないと思うので、本編の魅力についてはまた別の機会に書きたいと思う。ぜひ興味を持った人はぜひこのアニメを見てみてほしい。学生目線、社会人目線、置かれた立場に応じて、かなり見方が変わる物語だと感じる。年代や性別も関係なく楽しめる名作だ。






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