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武術を極める~宮平保さんの教え~

ここ最近、「武術」というカテゴリーに面白さを感じている。


侍の時代、「対人戦闘術を極める」ということと「治安を守るために対人戦闘術を使う」というのはイコールだった。
この国では武士がそれを担当していた。

今の時代、「対人戦闘術を極める」のは競技として特定のルールの中で戦うものとなり「治安を守る」のは警察や自衛隊の仕事となっている。

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格闘技としての対人戦闘術を極めるといわゆる「急所」への攻撃ができないため、例えば通り魔のように突然現れた暴漢のような存在を迅速確実に無力化することが容易ではない。

それ以前に格闘競技者が街中でその力を使うこと自体が問題視される。


さて、武術といえば現代の武士、火縄銃男子 佐野翔平さんなのだが9月の頭から旧東海道を歩いて制覇するチャレンジを開始されるらしいので詳しくはこちらで確認してみてください。

今日はまた別の話。


というわけで本題に戻ります。
きっかけはこの動画。

格闘技界隈のYouTubeブームにうまく乗った感じのジークンドーの石井東吾さんと中国武術をベースとした武術の師範、宮平保さん。

ジークンドーというのはブルース・リーに始まる中国武術「詠春拳」をベースとしてフェンシングとボクシングの技術を取り入れて改善された武術。

宮平さんについてはちょっと一言では表現できない。
なんだろう?
ある一定のレベルまで到達してしまった人という感じだろうか。
考え方や身のこなし、まさに達人と言っていい。

致命傷を与えるという意味では中国武術の達人たちをして「宮平の武術は危険だ」と言わしめるほどの熟練度らしい。


そもそも「武術」という表現をしているが大雑把に言ってしまうと「競技」としての体術ではなくて、もはや日常と言った方がいいのかもしれない。

僕のnoteでも何度か格闘技について書いたことがあるけれど、考え方として全く別物と言える。強さを追求するというのではなく道を極めるという表現の方がふさわしい。

宮平さんは武術について「避難訓練のようなもの」という表現をされている。有事の際に安全かつ迅速に対応できるように訓練するのが避難訓練なので。たしかに武術の本来の在り方はそうであるはず。

例えば暴漢に襲われたときに急所攻撃を躊躇っているうちにこちらが致命傷を負ってしまうような訓練であれば意味がない。
ひるまず、臆することなく最短時間で最小の力で安全に相手を制圧するためにも急所攻撃は必然である。

そのために技術だけではなく精神的な鍛練も必要となる。


そして究極はこの武術を使わなくてもいい社会が理想だという話を宮平さんはされている。

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組織や仕組みというものが何故できたのかを考えてみるとわかることだが、何らかの不具合があって、それを解決するために組織を作り仕組みを作る。何の目的もない、また目的から逸れた組織や仕組みは廃れていくしかない。

で、目的が実現した時に必要なくなるというのは究極の目的だ。


少し脱線するがAIが暴走して世界を乗っ取ったとして最終的にどうなるか。
TV版のエヴァ第13話でも出てきたが「進化の終着点は自滅」だ。
言いかえると「役割を終えたら不要」ということになる。

要するにそこをいかに自覚していくかということだと思う。
それを意識しているのとしていないのとではゴールが見えているのと見えていないという決定的な違いがある。

目的が改善である以上、その目的を果たしたら「お役目ご苦労さん」

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というのが自然な流れだろう。
「エヴァ劇場版~破~」冒頭のマリのエヴァ5号機に対するセリフが妙に心に響いたのはそういう部分もあるんだと思う。


目標を達成するとなくなる、というプロセスの中でショートカットというものが発生する。これはいわゆる仕事なんかでミスを発生させてしまうような手抜きのショートカットではない。

基本に基づいて忠実にやってきたがゆえに基本は完全に入っているので基本をベースにしてもっと最短距離でもっと最短時間でもっと力を加えずに技を決めることができる、いわゆる達人の領域の話。

これについては習字の話を例に挙げられていた。
習字はまず楷書を習う。いきなり草書からは入らない。
しっかり楷書を書くことができるようになって初めて行書を体得することができるし、さらに草書を体得することができる。

草書は崩し文字であり言わばショートカット。
いきなり素人が草書から入っても基本の楷書が入っていないので何を書いているかさっぱりわからない。

宮平さんは技に関して「言葉では表現できない」という言い方をされるが、実際のところそうなんだろうと思う。言葉で表現できてマニュアル化されるような領域ではないということなのだろう。


もちろんこれは武術という社会に生きる術みたいなカテゴリーの話で格闘技はエンタメというカテゴリーに入る。エンタメとしての格闘技は古代ローマのコロッセオの時代から人々に愛されている。

そういう意味で僕は「武術」と「格闘技」を棲み分けして考えるし格闘技は格闘技として面白いし好きだ。


今回、関連動画を見ていく中でいろんな発見があった。
それぞれの活動には目的がありその究極の目的が自分たちの活動が必要なくなること、そう考えるといろんなことに辻褄が合ってくる。

一つの成功にとらわれず常に新しいことに挑戦し続ける姿勢が理にかなっているとか、本当の意味でのショートカットとか、ほかにもいろいろあるけれどすでに2000文字を超えているので今日はこのあたりで。

だいぶ偏った話なので読みづらい部分もあったかと思いますが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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