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失敗だらけの自分史
黒歴史というより闇歴史と名付けたほうがいいのかもしれない。それは過去の自分と向き合う時に絶対に避けて通ることのできない部分だと思う。思い出したくないというよりも、思い出すと陰に籠ってしまうから自己防衛本能でいつの間にか心の中の見えない扉の内側に隠してしまっている。
でもそこには自分のルーツが明らかにある。
あまり自分のことを話すのは得意ではない。
整理されているわけでもなくダラダラと長くなると思うし、途中から有料記事にするので興味のある方だけどうぞ。
1.家族
小さい頃、いい子でいなきゃいけない、そんな風に思って育った。
父親が長男で、長男の長男というわけで旧家の考え方が残っていた我が家では当たり前のように染みついた考え方だった。
じいちゃんが60代で亡くなって、ばあちゃんは近所でも評判の性悪でおまけに超頑固者。僕が長男であるがゆえにかわいがってくれていたが子供ながらにこのばあちゃんの性格の悪さには気づいていて本能的に距離を取ろうとしていた幼少時代。
父親は生き方が不器用な人だった。手先は器用だったけど対人に関してはどうも不器用だった。僕はどうやら父親の遺伝子を受け継いでいるらしい。
70歳の声を聞いてすぐ父は他界した。
がんとの闘病があったうえ、入院生活の影響で認知症が進み、最期は同居の母や妹に随分迷惑をかけていた。
実家を離れて長いし、孫の顔も見せたから父に対して思い残すことはない。
ある種同類だし語らずしてわかる部分も父に対しては多かった。
母はとにかく我慢強い人。前出のばあちゃんの尋常ではない嫌味を全部乗り越えてきた。そしてそんな素振りは子供には一切見せない人。
母に関して僕は全く何の不満もない。理想の母親とかそんなのはよくわからないけど僕にとってはもったいなぐらいの母親だ。
正直苦労した母親に対して何かできているかと言えば自信がない。
うちの嫁は変わった人だからうちの母親には会いに行こうともしない。
うちの実家に顔を出したことなんて父の葬式を含めてほんの数回。
連休になれば娘たちを連れて実家に帰っているが、常に僕と娘二人の三人で帰る。あいにくのご時世でここ最近は帰ることができていないが。
そんな息子に対して母はいつでも許しをもって接してくれる。
話がそれたが、そんな環境で育った。
2.少年時代
観察力と自動思考は生まれついてのもので、近所の友達とも普通に遊んだが一人で何か考えてルールを決めて遊ぶことも同じように好きだった。
小3の頃にめちゃくちゃチームワークのいい友達ができて毎日のように遊んでいた。クラスの発表会ではそのグループで率先してオリジナルの紙芝居を作ってみんなを楽しませていた。共同作業で何か楽しいものを作るという喜びはこの時に初めて知ったような気がする。
小学5年でクラス替えがあり5人組だった僕らのグループは見事に5クラスに分けられた。4年の時に担任だった先生は転任になった。
翌年正月、年賀状が来たが返さなかった。
年賀状をもらって返さないというのはこの時がはじめてだった。
思ったのは学校ってこういうやり方をするところなんだ。。
たぶんここから「学校教育ってしょうもない」という考え方が芽生えた。
5年の時の先生がおばさんだったが、めっちゃ叩く先生で僕も何度となく叩かれた。なんで叩かれたかは覚えていない。愛情込めて叩かれたという気持ちは一切なくいわゆる教訓という世界だったように思う。
唯一その先生の功績(というか学校の教育方針だろうけど)は自主学習と題して宿題のほかに自分でいろいろ勉強して提出みたいなことをさせていたこと。家に百科事典はあったが開くことがないという状態から百科事典をあさって自主学習ネタを探すということを覚えた。知識を追求するのは楽しいと思った。
自主学習って別に漢字の書き取り提出でも良かったけど自由に好きなことを勉強できるっていうのは当時子供ながらに楽しいと感じていた。
僕はめっちゃ深堀するタイプというより広く浅くいろんな知識を集めて違う知識同士が繋がることに楽しみを覚えるタイプだったので百科事典はとても面白いものだった。
そんな感じだったから授業というものにあんまり関心を持てなかった。
「自分で教科書読んどきゃわかるやん」ぐらいに考えていた。
・・・傲慢すぎる(笑)
3.中学高校~思春期~
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