最先端であり続けることに疲れる

ふと立ち止まって見た時に随分最先端を求めすぎていたんじゃないかという思いに襲われることがある。

先日のオードリーのオールナイトニッポンで若林さんがYouTubeやTiktokで最新情報を調べてたら泣きそうになるという話をしていた。

同世代の友人と話すと90年代のブルズの話ばっかしてるという。
※1990年代にNBA(バスケットボール)のシカゴ・ブルズが、めちゃくちゃ強かったというような話だと思う。

同世代の友人と話す時って共通の話題があるわけだし敢えて知識をアップデートする必要がないっていうのもあるんだろう。
気負いなくコミュニケーションが取れるというのはよくわかる。

MCの仕事が多い若林さんにとって、新しいゲスト(今の時代ならYouTuberやらTiktokerみたいな人も多い)を迎える場合はやっぱ予習をするらしいけど、YoutubeやTiktokを見ていて泣きそうになることがあるらしい。

これだけでは何のことかよくわからないが、そのあともトークは続いていて本を読んだりドラマを見て面白いとか面白くないとかはわかるしある程度見ると自分で面白さが判断できる。
でもことYoutubeとかなってくると面白いのか面白くないのかがよくわからず、ただひたすら動画を見ていることがあると。
そうなってくると泣きそうになるそうだ。

知識をアップデートするのはいいとして度を越えてしまうとどうやらキャパオーバーになってしまうということらしい。

こういうことって皆さんも経験があるんじゃないでしょうか?

めちゃくちゃ仲のいい友達からこれ面白いから読んでみ!といわれてマンガを渡された。けど読んでも読んでも面白さがわからないし面白くないのかもわからない。
サロン記事を読んでいて書いてある内容は理解できるんだけど何のことだかさっぱりわからない。

僕は普通にありすぎるので、めちゃくちゃわかる!と思ってしまった。

そう、自分が判別できない分野に放り込まれたときに面白いとか面白くないとかをいきなり判断しなきゃならない状態に追い込まれるのって辛い。
それをある程度自分なりにかみ砕いてゲストとトークしなきゃならない若林さんにしてみると泣きそうにもなるだろうなと思った。

そう考えてみると判断基準とかいうものが過去になかったような最先端情報にずーっと触れていると疲弊してしまうというのはごく自然なことなのかもしれない。むしろそれが普通なのかも。
だから時々自分のレベルに合わせたユルーい遊びも入れながらの緊張と緩和がバランスよく取り入れられている必要があるんだろうなと思う。

昔は孤高の人みたいな感じになっても自分を貫いて生きていくことで個性とされていた時代があったが、今はコミュニティの時代であり孤高で生きていくことに意味はあまりない。

無理に片意地を張って生きていく必要はない。
ユルっと行くところはユルっと行って、
ビシッと決めるところはビシッと決めたらそれでいいんじゃない?

なんてことを思った。



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