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政宗君カフェ 本日のお客さんは伊達政宗その2

 1587年ー

 時は豊臣秀吉の時代ー

 豊臣秀吉により関東・奥州諸大名私戦禁止令(←これって何て読むの?)が発布されたが政宗はこれを無視した。

政宗

(↑伊達政宗の馬印)

1588年2月ー

 北方の大崎家の内紛に介入して兵1万を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北した。

 さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が義光の義兄・大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされた。これを大崎合戦と言う。

 同じころ、大崎合戦に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻して苗代田城を落とされてしまう。しかし、南方戦線において伊達成実による大内定綱の調略が成功。大崎合戦は母の義姫(政宗の母でもあり最上義光の妹)のおかげもあり停戦。

7月ー

 蘆名氏とも和議が成立して窮地を脱した政宗は愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した。

9月ー

 金山宗洗を通じて豊臣秀吉へ恭順を示し、秀吉は天正17年前半の上洛を求めた。

1589年11月ー

 政宗はある選択肢に迫られていた。北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣秀吉により北条(または小田原)征伐が行われることになった。政宗は父親の輝宗の時代から北条氏と同盟関係(今でいう友達を通り越して親友)にあったため、豊臣秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか(北条氏が負けるとお家滅亡)、直前まで迷っていたという(親友を裏切って家を守るべきか、義を重んじて親友につくべきか)。

片倉小十郎

結果的に片倉景綱(通称・小十郎)(↑肖像画)や浅野長政らに促され政宗は豊臣秀吉に服従をした。服従はしたものの北条征伐以後領地は家督相続時と同じ量に減俸(今じゃ捕まるけど減給するのと同じ)された。

1591年ー

葛西大崎一揆(労働組合の反動みたいな感じ)が起きて政宗は蒲生氏郷とともに平定(解決)するが…この一揆が政宗自身が起こしたという、うわさが流れこの噂は秀吉の耳にもとどまった。秀吉に弁明をして許される。

1593年ー

秀吉による朝鮮出兵に従軍し、文禄の役の時に伊達軍は非常に豪華だったため人々は派手な格好を好む人のことを「伊達者」と呼ぶようになった。

続く…

参考文献 Wikipediaなど

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