高橋哲哉 「謝罪・赦し・和解の政治とグローバル化」

昨日7月28日(火)、東大駒場のGSI(グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ)の企画「グローバル・スタディーズの課題シリーズ」の第4回として、高橋哲哉先生をお迎えし、表題のタイトルのセミナーが行なわれた。

https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/events/z0109_00002.html

「謝罪・赦し・和解」をめぐって、1990年代以降の世界の動きを踏まえ、アーレント、ジャンケレヴィッチ、デリダのテクストに立脚してのお話だった。コメンテーターの田辺明生、國分功一郎の両先生とも、デリダを中心としたコメントをなさった。私はデリダ読みとは言えないし、狭義の発表に寄りそうコメントとしては失格だったかもしれないが、広義ではつながるだろうと思い、自分の関心に引き付けた比較的自由な質問を2つさせていただいた。加藤典洋さんのことと、靖国神社と伊勢神宮の関係である。以下、あらかじめ下準備をしていた私の質問をまとめ直したものと、高橋先生の答えのメモを、覚書として残しておきたい。

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高橋先生には、テクストに立脚しながら手堅くスマートな議論をなさる印象があります。今日もそうでした。同時に、哲学のテクストをただ読むだけでなく、靖国問題や沖縄の基地、福島の原発など、社会の問題について、一貫した立場から発言を続けてこられました。学問と社会の関わり方のひとつのモデルを示した先人として、敬意と憧憬の念を抱いてきました。他方、東北地方出身でフランス語の使い手としての研究者ということで、私なんかとも接点があると、親近感も抱いてきました。

東北出身のフランス系研究者として、三浦信孝先生と高橋先生と私には、実はひとつの共通点があります。それは誕生日が同じであるということです。自分に自信を取り戻したいときは、そのことを思い起こして、励ましたりもしております。

しかし、今ここで、東北出身のフランス語の使い手として名前を出したいのは、加藤典洋さんのことです。昨年惜しくも亡くなられましたが、山形出身で、東大仏文を出たあと、国会図書館に勤務し、そこから派遣されたフランス語圏であるカナダのケベックで3年半を過ごし、帰国後に『アメリカの影』でデビューしました。1995年の戦後50年を機に書かれた『敗戦後論』が、平和憲法の「ねじれ」や、先の大戦の死者の追悼について論じ、当人は改憲派と護憲派の対立を調停するような提案をしたつもりだったのではとも思いますが、右からも左からも批判を受け、特に「左」からは高橋先生との間に大きな論争を引き起こしました。

当時お二人を中心にしてなされた「歴史主体論争」には込み入っているところがあるので、今それを短い時間で詳しく復元することはできませんが、その本質的なところは謝罪の主体としての「ネーション」「国民」の立ち上げに関わる問題と私は理解しています。自己がないと他者にも出会えないというのが加藤さんの立場で、そのような「閉じられた哀悼共同体」としての「日本国民」ではなく、「ナショナリズムなき民主主義」を目指すべきではないのかというのが高橋先生の立場と理解しています。

それから20年ないし25年が経過しています。この間、9・11もありましたし、民主党政権を挟んでの2度の安倍政権(2回目は非常に長期で現在まで続いている)になっていて、日本のナショナリズムの親米右翼ぶりが大きく際立つことになっています。

戦後70年の2015年には、お二人ともご本を出しています。加藤さんは『戦後入門』(ちくま新書)において、「国連中心主義のうちに憲法九条の理念の実現の回路を見出す」ことによって「対米自立を成し遂げる」ような「左折の改憲」を提案しています。そして、次のように述べています。

「二〇一一年の三月の東日本大震災、大津波、原発事故以降の日本社会と日本政治の劣化のぐあい、とりわけ二〇一二年一二月以降の自民党政権の徹底した対米従属主義の外装のもとでの復古型国家主義的な政策の追求に、何としてでも歯止めをかけたいと考えています」(同書、427—428ページ)。

一方、高橋先生は『沖縄の米軍基地』(集英社新書)を出していて、戦後日本の「平和」なるものは沖縄を「犠牲」にすることで成り立ってきたとして、「「日本人」は、沖縄の米軍基地を「引き取る」べきである」と提言しています。

高橋先生は、日米安保体制を破棄することは事実上できないとして、日米同盟の枠を受け入れているようにも見えます。1995年前後の議論では、自由主義史観が「右」、高橋先生が「左」だとすると、加藤さんの議論は右からも左からも叩かれました。あるいは、「左」からは「右」の人と見られました。ところで、現在においては、親米右派政権の長期化のなかで、高橋先生は日米安保の枠組みは受け入れた上で基地は本土でも引き受けようという主張なのに対して、加藤さんは安保の枠組みを破る「左折の改憲」が必要と言っています。ある意味で、加藤さんと高橋先生の真ん中と左の位置が入れ替わっているようにも見えるのですが、どうでしょうか。このような見方は妥当でしょうか、違っていますでしょうか。

時間が押していますが、もう1点質問させてください。靖国神社と伊勢神宮の関係です。高橋先生は2005年に『靖国問題』(ちくま新書)を刊行しています。当時は小泉政権で、靖国参拝を繰り返していました。安倍首相は1期目は靖国参拝ができず、2012年に政権に返り咲いて1年後の2013年の年末に参拝しましたが、これはアメリカからも「失望」したという声明が寄せられ、その後は靖国参拝をしていません。その代わりに、伊勢神宮がクローズアップされていると思います。新年の首相の伊勢神宮参拝はかなり前から恒例化していますが、2013年には式年遷宮の儀式にも参加しましたし、2016年には伊勢志摩サミットが開催されました。

靖国神社と比べると、伊勢神宮は戦争の記憶にそこまで彩られていないという特徴があるかと思います。憲法ではもちろん政教分離が規定されていますが、伊勢神宮は日本という国の成り立ちとも関わるとされ、いわゆる宗教とは異なる伝統の枠組みで、政治との関係を厳しく問われないという面もあるように見えます。

このように、靖国神社から伊勢神宮へという動きがあるように思われるのですが、高橋先生はこの点をどう見ていらっしゃいますでしょうか。同じところと違うところは何で、どうすべきなのか、お考えがあればお聞かせください。

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以下は、高橋先生のレスポンスを私がその場でメモしたものの復元である。高橋先生はもう少し言葉を補う形で喋っていらっしゃったし、私のまとめ方に問題がある可能性も否定できないが、大意は外していないはずである。時間の関係もあり、レスポンスは1つ目の質問に対してのみだった。

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・ 加藤典洋さんとの論争のことだが、いわゆる「歴史主体論争」においては1995年当時の段階でも、私の立場は、ラディカルな左からは、国民という枠を設けているではないかという批判をもらっていた(上野千鶴子さんなど)。ただ、ヤスパースがpolitical guiltと言うように、政治的主体というものも考えなければいけないので、それは否定できない。

・ 私が「真ん中」に寄ってきたようにも見えるということだが、私が安保体制を受け入れるようになったと理解されたとしたら、それは誤解である。現に安保体制があって、沖縄の犠牲があるならば、本土に引き取る責任があるのではないかというのが私の議論。いずれ安保を撤廃したいと考えていても、引き取るという発想がそもそもないのであれば、いつまで経っても変わらないであろう。

・ 安保体制の日本が実質的にアメリカの「属国」になっているという認識は私も(加藤さんと)同じ。しかし、日本のマジョリティはそのことの当事者性を実感できていない。今の日本の政治家のなかには残念ながら現在の構造の解消に向けて取り組む人がいない。

・ 私としては、左とか右とかいうイデオロギーとは別のところで考えてきたつもりである。

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