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ラグビーとの付き合い③〜ワールドカップ の盛り上がりの中で〜

日本は無事に予選を勝ち抜き、1991年の第2回ラグビーワールドカップに出場し、対戦した上位国(スコットランド・アイルランド)との差はまだまだ大きいと感じる部分はあったものの、ジンバブエ戦でワールドカップ初勝利も得る事ができ、順調に強豪国への道を歩んでいる様に見えたものの、1995年に南アフリカで開催された第3回ラグビーワールドカップでその流れに冷や水を浴びせる様な出来事が起きる。

その前にこの1995年の南アフリカワールドカップについて少し触れると、それまでアパルトヘイトによって国際試合から排除され、幻の強国と言われていた南アフリカがついにそのベールを脱ぐ時が来たとして非常に注目されていた大会である。
南アフリカは対オールブラックスの戦績が他のどの国よりも良く、国際試合に出てこない時代でも、
「実はオールブラックスよりも強い」
であるとか、
「もう国際的な技術のトレンドから置いていかれて久しいので、もう且つての強さはない」
等色々な噂が流れていた。今の様なネットが発達した世界であればすぐにその情報が取れるのだろうが、当時の通信手段では南アフリカのラグビーが一体どの様な状態であるのかを少なくともいちラグビーファンのレベルで知る事は非常に困難な時代であった。

ワールドカップ自体は映画「インビクタス」に描かれている様に、そのベールを脱いだ南アフリカ代表"スプリングボクス"が自国開催、初出場、初優勝を飾り、その強さが幻では無かったことを証明したのだが、前述の通り日本代表においては、非常に残念な事件が起こる。

ラグビーファンの間では「ブルームフォンテーンの悲劇」として語られる対オールブラックス(ニュージーランド代表)戦での17-145というスコアでの敗戦である。

ヴィジョンなき中途半端な強化と、これまた中途半端に国外出身の選手に頼り、そこへ協会のパワーゲームが加わり、何の準備もなくオールブラックスにぶつかることになってしまった。
入念な準備をしたところで勝てる可能性は限りなく低い相手に何の策もないままにぶつかって言って勝てる訳もない。
結果としてワールドカップ史上に残る惨敗を喫しることになった。

これに加えて大会期間中の代表選手たちの規律の緩みも指摘され、日本は代表の強化もままならない暗黒の時代に入っていく。


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