「桜文」を観劇した感想のようなもの

これは素人感想です。
書き殴りました。

先日、舞台「桜文」を観に行きました。

元々、乃木坂46の久保さんがちょこちょこ舞台に出ていて気になっていた…というのがきっかけ。
たまたまチケット発売前に情報を知れて、興味のあるテーマで、U-25(25歳以下は少し安くチケットが手に入る)をやっていて、という偶然が重なり観劇に至りました。

一言でいうと、正解だなと思いました。

何が?

キャスティングですよ。

久保さんが、すごく役と合っていました。

普段の久保さんをあまり知らないので、はっきりとしたことは申し上げられませんが、元々持っている雰囲気が気品のある少女って感じじゃないですか。いい意味でキャピキャピしていないというか、落ち着いた大人のようにも純粋な子どものようにも見えるというか。その雰囲気がとても合っていたと思います。

そしてなにより、客層。

男性が半数以上たったのではないですかね?
女子トイレに並ばずに済みました。びっくり。

年齢層も様々で、結構高齢の方から高校生くらいの子まで。たぶん久保さんのファンなんだろうなって方がいました。

久保さんの役は高級花魁ですが、その周りの男たちは、アイドルのファンとみることもできます。

作中で男たちは、桜雅の幸せだなんだといいながら身勝手に自分の欲求を満たすことに執着します。
アイドルのファンだって、自論ですが、結局は自己満足なんですよね。グッズを買ったり、イベントに行ったり、確かにそれは目に見える人気や売上となってアイドルを応援することになるかもしれない。しかしそれに見返りを求めるへきではないですよね。だってファンが好きでやっていることなんですから。

これは、超絶オタクの自分にも日々言い聞かせていることです。

さて、話は戻して。

アイドルをキャスティングすれば、当然そのファンにも作品が届く。
ファンに向けたメッセージも、この舞台には含まれていた、いや、含むことになったのかなと思いました。考えすぎ。

久保さんがアイドルだからきキャスティングされたんだ、とは言ってないですからね。

結果的に作品の持つメッセージの解釈が増えたというだけです。

そもそもオファーなのかオーディションなのかも知りません……



作品全体として、満足感はそれなりにありました。
あまり良い演劇悪い演劇がまだ分からないもので、ただの“感じ”でしかないんですが……

脚本はとにかく好きです。
内容はさることながら、テンポが速すぎることも遅すぎることも無く、時間の移動も自然でした。

演出はすごく凝っているというか労力をかけているなと感じました。スモークとか凄かったね。
ただちょっとドタバタ感が気になりました。足音とかも含めて。あんなもんですかね?

お芝居の演出の方は、なんというか、私のイメージする正統派という感じがしました。
引っかかりなく観られるというか。
演劇として観ても、ただそこにいる人々のやりとりとして見ても、違和感がなく気持ちが良かったです。

お芝居自体の善し悪しは私が言うことじゃないですからね。あれですけども。
久保さん、めちゃくちゃ良かったですね。
時代は現代でもないし、花魁なわけだし、普段の話口調とはまるで違うはずなのに、すごく馴染んでいました。久保さんの声めちゃくちゃ好きだな……ていうか久保さんのお芝居が好きだなと思いました。


個人的に気になっているのは最後。

私はこの作品に関して本当に作品を観ただけなので、どこかで詳細が出ているかもしれません。

が、あくまで私の感想ということで。

最後の久保さんとゆうたろうさんは、雅沙子と、仙太・霧野どっちだったのでしょう。個人的には仙太だといいなと思ったんですが、(劇中での)現代と照らし合わせるなら霧野なのでしょうか。

ところで、桜雅のあの後が、どう考えても悲劇なんですよね……
あの代筆屋(作中でなんと言っていたか忘れてしまいました)が雅沙子だと考えるのが王道であり妥当という気がしますが、そう考えると、あの後 身請けは無かったことになり桜雅は吉原を出られなかったってことですよね。
ここまで考えて、霧野が吉原に連れていくようにせがんだのは、そこに雅沙子がいるからだったんだと気付いてしまい……

あのお婆さんが雅沙子でも雅沙子じゃなかったとしても、桜雅は吉原を出られなかったんですね…。

きっと身請けもされず、店も追い出され……

代筆屋さんの場所を考えると、そうなんでしょうね、きっと。


さて、最終的に、物語はハッピーエンドのような形で終わりました。

青年は桜文を編集者に見せると言い去っていった。
これは物語となったことで過去から解放され、雅沙子は自由の身となり幸せになれたと解釈していいんでしょうか。

そんなわけないよ、と私は思います。

売られた少女が、幸せになれるわけがないんです。

これは、少女自身ではなく、その周りの人に向ける言葉です。
本人には、そんなこと言えません。

ただ、もし、年季があけ、霧野が秘密を小説を書かず、2人で家庭を築いたのなら、それは雅沙子にとって救いにはなったのだろうと思います。


追記:これだと、もし読む人がいたら2人で家庭を築くことが雅沙子の幸せだと主張しているように思われるかもしれないので補足。あくまで幸せではなく、救いです。仙太との無念を、少し晴らせるのかな、と。きっと雅沙子にとっての幸せは、あれだけ教養のあり賢い人だから、それを存分に発揮できるような環境に身を置くことなんじゃないだろうか。

少し運命が違えば、少しでも本当に優しい人と出会えていたなら、雅沙子は全く違う人生を歩んでいたに違いないのに…


遊郭が舞台になるものは、何かと批判されますよね。
最近だと鬼滅の刃でしょうか。
もう最近でもないか……

私はテレビで的はずれな批判をされたことにしっかり憤ってしまったのですが……。

あれはきちんと、というのもおかしな話ですが、遊郭の理不尽で残酷な事実を描いていると思いました。鬼滅の刃も社会の弱者を描いていて、だいぶ残酷な世界を表現していますが、私の中では遊郭編が最も辛かったです。

いたずらに美化して描く世界では無いです。そんなものがあれば、私もきちんと批判の目を向けるでしょう。

しかし、その理不尽さや惨さ、歪みを表現するのであれば、むしろどんどん作品にすべきだと思うのです。どんどん、は言い過ぎかもしれませんが。

そんな作品に触れ、こんな世界はおかしい、と少しでも多くの人が思うことが今の世の中をも良くすると思います。



まぁ正直、作品を観てそこまで考えられる人か沢山いるなら今こんな世の中にはなってねぇよな思いますが。


追記:観劇から1ヶ月ほど経ちましたが、未だに思い返してはこの世界に浸ってしまいます。

桜雅の、いや、雅沙子の「わっちにわかるのは破滅させられる者の気持ちでありんす(ニュアンス)」という言葉が胸に突き刺さっています。

大千穐楽、おめでとうございます。

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