見出し画像

坂東の平氏

 残暑が続くので調べ物シリーズです。
 現在やっている大河ドラマの「光る君へ」は、平安時代の貴族社会が舞台であり、今のところ武士の登場はありませんが、主役のひとりである藤原道長が生まれた966年より20年以上前に平将門の乱は起きています。武士の力が徐々に高まっている時代であり、ドラマの裏で武士が蠢いていることを意識しておくと、興味が増すのではないかと思います。

 前回は、源氏の立場から坂東との関わりを述べました。

 今回は平氏側から坂東との関わりを述べたいと思います。
 平安時代末期の坂東の武士団の所領地を下図にマッピングしましたが、概ね坂東八平氏を代表とする平良文(よしふみ)流の平氏一族が占めています。どうしてそうなったのか、時代を遡ってみたいと思います。

平安末期の東国武士団


桓武平氏の系図

 「平氏」も、「源氏」と同様に皇族が臣下に降りるときに賜る姓で、4つの系統がある。中でも一番隆盛を極めたのが桓武天皇を祖とする桓武平氏である。
 桓武平氏にも825年に臣下に降った平高棟(たかむね)の系統があるが、こちらは公家平氏と呼ばれるように都の公家に留まった。武士を生んだのは、889年に臣下に降った平高望(たかもち)の系統になる。高望は同時に上総介として坂東に赴任し、息子たちも一緒に坂東に土着した。
 なお、土着したとしても都と縁が切れたわけでは無く、京に行き来することは多かった。将門も10代から12年京に居て、藤原忠平に仕え官位を得ようとしたがかなわなかった。
 清和源氏の祖となった源経基が武蔵介として坂東に進出したのは、938年なので50年ぐらい遅れていた。源氏は坂東に土着することなく、河内など都周辺を本拠地として諸国の受領を歴任した。

桓武平氏高望流系図・抜粋


平将門の乱

 将門の乱は、将門と叔父との間の一族内の争いに始まり、各国府を制圧した将門は自らを新皇と称して坂東各国司を任命した。平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)が、力を合わせて将門を討ち、残党を掃討した。
 貞盛と秀郷は、平定の恩賞として叙爵を受け、都の武者としての地位を得た。
 貞盛の一族からは、維衡(これひら)を祖とする伊勢平氏が発生し、やがて清盛による平家政権が誕生する。なお、「光る君へ」で維衡を伊勢守に任命することを道長が反対するシーンがあったが、後に道長は維衡から贈答を受けて主従とする。
 秀郷の一族も各地で栄えるが、969年の安和(あんな)の変において、嫡子の藤原千春が源満仲らの密告により失脚する。
 また、源経基が将門に謀反の疑いがあると朝廷にチクったことが、昇進のきっかけとなり、源氏の繁栄に繋がった。

 

平良文流

 父高望や兄たちとは遅れ、良文は923年に醍醐天皇から相模国の賊の討伐の勅命を受けて下向する。「村岡」の地に本拠地を構えたことから村岡五郎と称したとされるが、「村岡」の候補地が武蔵国、相模国、下総国にあり、その動向は謎が多い。

候補地・藤原市村岡城址公園

 「将門記」には、良文についての記載は無く、将門に味方したとも、討伐側に回ったとも両説あるようだ。
 貞盛一族と異なり、良文の子孫は、坂東各地に土着し地元の豪族の勢力を婚姻を通して取り込み、地名を氏とする坂東八平氏となる。


平忠常の乱

 良文の孫である忠常は、常陸、上総、下総に広大な所領を持つ豪族として勢力を拡大した。租税を納めず、国司の命にも従わなかったが、1008年頃常陸守として赴任してきた源頼信に攻め込まれて、降伏し主従関係を結ぶ。
 その20年後、忠常が対立する安房国の国司を殺害し、忠常の乱が発生する。当初追討使に選ばれたのは、平貞盛の子孫である検非違使の平直方(なおかた)だったが、徹底抗戦に遭い鎮圧できずに土地は荒廃する。
 直方の代わりに追討使に選ばれたのが、甲斐守に任じられた頼信である。頼信が甲斐国に着任すると、忠常は息子たちと甲斐国を訪ねて頼信に降伏する。その後、忠常は都に連行される途中病死し、息子たちは頼信の働きかけにより処分が下されることは無かった。
 平氏一族である直方には徹底抗戦で臨み、源氏の頼信には従う図式は、鎌倉幕府設立時にも継承される。
 この後、直方は頼信の子頼義を婿として迎え、鎌倉の所領を継がせた。


その後の源氏と坂東平氏

 頼信の功績により、在地豪族としての平氏一族と、彼らを統率する源氏という図式ができ、この関係性は以後の戦においても継承される。
 前九年の役では、頼義が坂東武士を率いて陸奥国で戦い、後三年の役は頼義の子義家の私戦と見なされたが、坂東武士も戦いに加わった。
 その後、一時的に源氏は衰退するが、坂東に根を張った義朝に従い、保元・平治の乱に上総広常、千葉常胤、足立遠元、三浦義澄らが参戦する。
 20年後頼朝が挙兵し、平家との戦いが始まるが、指揮は源氏であったが伊勢平氏と坂東平氏の同族の戦いであった。

 本流から外れて坂東に土着し、中央政権の顔色やご機嫌を伺いながら利を確保し、所領争いを繰り返していた坂東武士にとって、中央政権にものが言えて、中立的な立場で裁定を下す頼朝は、理想的なリーダーだったのでしょう。自身の役割が分かっていたからこそ、院に取り込まれた義経の粛正と、鎌倉幕府の設立は不可避だったのではないかと思います。

 8日の「光る君へ」の中で、源頼親が大和国で乱暴狼藉を働いていることを興福寺が訴えるシーンがありました。先週の平維衡に続いて、各地で武士が暴れている時代背景が垣間見られますが、武士の姿を映すこと無く、映像は雅な宮中に閉じるのが基本スタンスのようです。どこかで武士の登場があるのかが、気になります。


参考書籍

「源氏と坂東武士」野口実
「河内源氏」元木康雄
「平氏 ー公家の盛衰、武家の興亡」倉本一宏


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?