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藤原氏と武士 「光る君へ」の裏側

 まだまだ猛暑が続くので、屋内で読書三昧です。
 以前、坂東武士たちを蒙古のような騎馬民族と例えましたが、坂東武士の成り立ちを調べていくと、決して辺境の地に閉じこもっていたわけではなく、京の都と繋がりが強く、頻繁に行き来もしていたことを知りました。
 平将門も10代から12年間都の武士として働いていたり、将門を討ち取った平貞盛や藤原秀郷の一族は、その功により都で武家貴族として重用されてたりします。在地にいても、都の権門(天皇家、公家、寺社)への荘園の寄進や献上品によって接近し、相互の依存関係が構築されます。
 地方の武士にだけ注目していると、公家社会から武家社会へ移行していった国内全体の動きが見えないので、権門を代表する摂関家と武士の関係を掘り下げてみました。
 ちょうど、大河ドラマ「光る君へ」の時代と重なりますが、ドラマではほとんど描かれない武士が果たした役割にも注目しました。



摂関家藤原氏

摂関家藤原氏系図(抜粋)

 藤原氏は、中臣鎌足が中大兄皇子(後の天智天皇)とともに蘇我入鹿を暗殺し、大化の改新を進めた功により賜ったことにより始まる。
 平安時代に入り、幼皇に代わり政務を行う摂政、成人天皇を補佐する関白に藤原氏が代々つき、政治の主導権を握る体制が続いた。これを摂関政治と呼ぶ。
 これが可能となったのは、鎌足の子不比等(ふひと)が制定した蔭位(おんい)制により、藤原氏は従五位下(=貴族)から始まり出世が早かったことと(後継ぎを引き上げるのは今も昔も一緒)、女(むすめ)を天皇に入内(じゅだい)させることにより外戚として、天皇に影響力を持ったことが大きい。
 最高実力者である摂関家と、中央および在地の武士が主従関係を結び、庇護と優遇の見返りに、富や武力を摂関家に提供した。
 将門の乱を契機に、力を持つ武士を受領(国司)として任命し、武力でもって統治させることが一般化する。これにより、有力な武士が受領を歴任して富を蓄え、摂関家に上納する癒着関係ができる。
 摂関政治は、道長、頼道の時代をピークとして院政の時代に入り、次第に主導権を無くし、保元の乱により藤原氏の栄華は終わる。


藤原道長と武士

道長周辺

 藤原道長は、摂関家として絶頂期を造る。この間、3人の天皇に娘を入内させ、長期間外戚として影響力を発揮した。
 また、道長四天王とも呼ばれた当時の有力な武士と主従関係を結び、受領として各地を統治させることで、武力でもって地域を治めさせた。当然、荒っぽい行動がベースにあるので、各地でもめ事や摩擦が発生するが、それらを裁いていたのも道長であった。
 平維茂は、各地で紛争を起こし、上総国府を焼き討ちする所業まで起こしているが、道長に擁護され、罪に問われることは無かった。道長への献上品を欠かさず、鎮守府将軍まで上ったが、最終的には見限られて再任されることはなかった。
 「光る君へ」で、平致頼と争っていた平維衡の伊勢守への任用を、道長が反対する場面があったが、史実でもあるようだ。主従とは言え、譲れない一線があったのかも。
 藤原隆家は、花山法皇の衣を射るという乱行により、兄伊周と道長との後継者争いの脱落の要因を作ったが、太宰府権帥任期中に「刀伊(女真族)の入寇」が起き、九州武士団を指揮し撃退した。武人の素養のある人物だったようだ。


藤原氏と平氏

桓武平氏高望流系図(抜粋)

 将門は都に出仕していたこともあり、藤原忠平と主従関係があった。将門の乱は、当初一族の争いであり、謀反の気が無いことを忠平に認められるが、その後新皇を名乗るに至り、国賊として追討を命じられる。中央の征討軍が到着する前に、平貞盛藤原秀郷に将門は討たれた。
 乱の鎮圧に功のある貞盛の一族は、軍事貴族としての地位を中央で獲得し、一部は摂関家の家人になって奉仕に努め、密着を強めた。
 秀郷は貞盛より功を認められ、すぐに下野・武蔵守に任じられるが、子の千春が安和の変で、満仲の密告により失脚させられ、以降中央から秀郷の子孫は排除される(奥州では奥州藤原氏の祖となる)。
 忠常は道長の子教通を主として従っており、中央の情勢も把握し、道長が亡くなったタイミングで安房国府を襲撃し、平忠常の乱が勃発する。忠常の追討使には、源頼信が第一候補だったが、藤原頼通の推挙により平直方が選ばれる。藤原氏兄弟の争いの代理戦争を、平氏一族が行っているようにも思われる。
 結局、直方は乱を静めることができず、頼信に追討が命じられると、すかさず忠常は降伏する。このことより、武家の棟梁としての源氏の地位が確立し、鎌倉幕府設立に繋がる。
 ドラマでも描かれていたが、平致頼は同族の平維衡と伊勢をめぐって争い、伊周の命を受けて金峯山寺参拝に向かう道長の命を狙った疑いがあるようだ。致頼は、平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されているが、受領として重用されることは無かった。


藤原氏と源氏

清和源氏系図(抜粋)

 清和源氏の系図を、藤原摂関家との関係性に着目して振り返ると、栄枯盛衰に大きく関わっていることを再認識する。
 まず、満仲が武士として飛躍したのは、摂関家との繋がりによるところが大きい。安和の変において、藤原摂関家の政敵であった源高明を失脚させると共に、秀郷一族の排斥にも成功し、中央での武家の地位を確立する。
 頼信は、前述した通り忠常の乱の平定に功があり、以降の源氏棟梁化の礎を築いた。
 摂関家の力がピークだった道長、頼通の時代を終わり、院政が始まると、摂関家の権威を後ろ盾にしていた源氏の嫡子も迷走を始める。
 為義は、摂関家長者の藤原忠実頼長に従い崇徳上皇についたことにより、後白河天皇についた義朝と対立し敗者となる。
 その後、義朝も拠り所を見失い、藤原信頼というあだ花に身を預けたことにより平治の乱の敗者となり、武家源氏断絶の手前まで行く。
 頼朝が源氏の再興をなし得たのは、権威に頼るのではなく、自らが権威として武士政権を設立したことによると考えられる。


藤原保昌の系図

南家藤原氏黒麻呂流系図(抜粋)

 道長四天王の最後のひとりである藤原保昌は、平氏でも源氏でもない、異色の家系の武士であり、道長から息子のように可愛がられた家人である。
 南家藤原氏(摂関家の北家とは奈良時代に分かれた)の黒麻呂を祖とする貴族の家系であるが、坂東に土着した春継や、秀でた学者であり文人とした出世した菅根、殺人で流罪となった父致忠、盗賊として獄中で切腹した弟保輔、そして妻にしたのは和泉式部という硬軟織り混ざった色とりどりの家系である。そして、保昌には源満仲の室となり、源氏の嫡子を生んだ姉妹がいた。つまり、源氏はこの無茶苦茶な家系の血を継承していることになる。そのことがどう影響したのかは計り知れないが、血統に関わらず人はいかようにも変わり得ることを証明しているのは間違いない。
 「光る君へ」には既に和泉式部が登場しているので、保昌の登場も期待したい。


参考書籍

「源氏と坂東武士」野口実
「河内源氏」元木康雄
「平氏 ー公家の盛衰、武家の興亡」倉本一宏
「藤原氏 ー権力中枢の一族」倉本一宏
「平安王朝と源平武士」桃崎有一郎

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