短編小説『魂の蔓』
彼女を駄目にしてしまったのは自分だ。
いつもの様に、幻覚剤の齎す多幸感に浸っていると、突然キッチンから叫び声が聞こえて来た。気持ちは急いても体が動かず、緩慢な歩みでキッチンに向かう。彼女──Mが包丁で自分の左腕を切り落とそうとしていた。私は慌てて彼女の右腕を引き離し、反動で二人とも後ろに大きく倒れた。包丁は床に転がり落ち、泣き叫び暴れるMを必死で押さえつけた。間も無くMは気を失った。床には血溜まりが出来ていた。彼女の体をそっと横たえ、血の付着した包丁を拾い上げ、電話で救急車を呼ぶ。五分程度で救急隊が家にやって来て、Mは担架に載せられ病院へ搬送された。数時間後、滅多に鳴らない電話が鳴った。病院からで、彼女の命に別条は無い事、然し別の国立病院に移り、入院するのが決まった事を報された。電話を切り、私はまた幻覚剤を飲んだ。
大学を中退し、親の仕送りだけで生活していた頃、数少ない知人の紹介でMと出会った。私は個性的な顔と言うのか、世間一般の美人とは異なる顔の女性が好みなのだが、Mは世間一般の美人の規範そのものだった。どの年代の誰が見ても間違い無く美しいと評価する姿態を有していた。顔だけで無く首から下も完璧で、身長も高く、髪も肌も爪も何もかもが美しかった。彼女はモデルとして生計を立てており、名の知れたファッション誌に写真が載る事もあった。
先述した好みの通り、余りにも美しい人間を見ると、自分にだけ訴えかけて来る魅力と言う物を私は感じない。但し、彼女は声が特徴的で──つまり美しい声とはかけ離れており、そこに惹かれた。そして何より、会話が楽しかった。人の話を引き出すのも自分の話をするのも上手で、豊かな語彙を用い、静かで思慮深げに喋る。私は人と会話するのは余り好きでは無く、一人で居る方が楽だったが、Mとだけはいつまでも話していたいと思った。
彼女と出会う前──十代の頃から私は薬物使用者だった。好きになる作家、ミュージシャン、アーティストは決まってジャンキーだったので、手を出すのに抵抗は全く無かった。と言うより、誰からも勧められる事無く自ら率先して薬物を試した。勉強も出来ず、働く事も出来ず、そもそも生活能力が著しく低い私が唯一人並みに出来たのは、絵を描く事だけだった。薬物をやって絵を描けば、きっと素晴らしい作品が出来上がるだろうと安易に考えた。現実は全くその通りにならなかった。画材の質感を深く味わったり、素面であれば使わないような色を使ったり──描いている最中はとても楽しく、こんな最高の作品は未だかつて誰も描いていないだろう、と終始感動的な体験をし続ける。だが、効果が切れた後に見てみると、それは単なる「ジャンキーの絵」でしか無い。何度試しても結果は変わらなかった。私は酷くがっかりした。薬物によって天才的な才能を獲得出来るのでは無い。凡人は飽くまでも凡人に過ぎない。元々才能のある人間が薬物を使用する事で、普段は眠っている部分が覚醒したり、才能がより高まったりして名作が出来上がるのだ。この事を学んでから、薬物を使用しながら絵は描かなくなり、映画を観たり音楽を聴いたりするに留まる様になった。
大学に進学し、実家を出て一人暮らしを始めると、薬物の使用量は一気に増加した。素面で居る時間の方が短くなり、数ヶ月で大学に行かなくなった。その事はすぐ親に知られ、電話口でこっぴどく叱られた。私は迷わず自主退学を選択した。親は実家に帰って来るよう言ったが、「すぐに就職するから、それまで仕送りをして欲しい」と説得した。働く気が無い訳では無かったが、自分が働けるとは微塵も思って居なかった。アルバイトをした事は何度かあったが、どれも一ヶ月以内に馘になった。その上、常時薬物に耽溺している。就職なんて不可能だ。かと言って親と一緒に暮らすのも考えられない。私は今のこの堕落した生活を、どうしても手放したく無かった。──自分が「何か出来る人間」であれば喜んで手放しただろうが、あらゆる点に於いて無能な自分として生きる事に、素面ではもう耐えられなくなっていた。
Mと出会ってすぐ、彼女の家に入り浸る様になった。私は一人暮らしの部屋を引き払い、同棲を開始した。親には「就職が決まったから、もう仕送りは要らない」と嘘の報告をした。本当に信じているのかは判然としなかったが、仕送りは止まり、息子の身を案じる連絡も寄越さなくなった。
果たして私はMのヒモになった。彼女の実家は裕福で、その上モデルもやっていたので金には困らなかった。
私は元々性欲が人より薄かったが、使用している薬物の副作用によりほぼ皆無になっていた。子供の様に、Mに抱かれながら目を閉じて空想に耽るだけで幸せだった。完全に幸せだった。彼女はギターを弾くのが趣味だった。昔付き合った男がギタリストで、教わったのだそうだ。何十万もしそうな黒いアコースティックギターを弾きながら、あの独特の声で歌うのを聴くのも幸せな時間だった。好きなミュージシャンの曲を弾いたり、たまに即興で弾き語りをしてくれる事もあった。素面になると、私は絵を描いた。ある日何となくMの絵を描いて見せるととても喜んでくれ、部屋の壁に飾っていた。それから私は彼女の絵ばかり描く様になり、部屋の壁は私の描いた絵だらけになった。
半年程は、その様な幸福で平穏な期間が続いた。Mは私が常時薬物を使用している事を知りながらも、それについて何か言及したり、興味を持つ事は無かった。
ある晩、Mの友人が主催するクラブイベントに二人で行く事になった。私は、「これを飲むともっと楽しめるよ」と言い、初めてMに薬物を勧めた。「これ大丈夫なの?依存性無い?」と不安げだったが、無いと言うと(これは本当だ)恐る恐る口にした。明け方にイベントが終わり、帰路に就いていたが、Mは興奮が冷めない様子で踊るように歩きながら、楽しそうに歌っていた。帰宅してすぐベッドに入ると、Mは「あれ凄いね。今日はとても楽しかった。おやすみ」と笑って言い、すぐ眠りに落ちた。肌理の細かい額に黒い髪の毛が数本流れ落ちる。涼しげな香水の香りがまだ微かに残っていた。
それから彼女は、その様なイベント事がある際には薬物を欲しがる様になった。私は色んな種類の薬物を彼女に飲ませた。転落はいとも容易く、あっという間だった。仕事に行きたく無い時、何と無く気分が落ち込む時──薬物を使用する理由がどんどん増えて行った。
素面だと、彼女は神経質な性格になり、自分の容姿のここが気に入らないとか、体重が数グラム増えたとか、果ては日々老いて醜くなっていく事が恐ろしいと言い出す始末だった。勿論そんな事は無く、彼女は毎日美しいままだった。その様な不安に陥ると、私は決まって彼女の美しい部分を──つまり全ての体の部位を一つずつ──どんなふうに美しいのか言って聞かせた。彼女はさめざめと涙を流しながら強い鎮痛剤を飲み、やがて薬が効いて来ると「さっきはごめんね」と言い、ゆっくりと美しく微笑むのだった。
そうしてMは美しい姿のまま、精神を爛れさせていった。私は疾うの昔に、自分の犯した過ちに気付いていた。然し気付いている事を自覚するのも、それに対処する方法を考えるのも、何もかもを先延ばしにし、気付いていない振りをした。その様な曖昧な態度──経済的に頼り切り一向に働こうとしないところ、家事も全く出来ないところ、性欲が湧かないところ、それなのにいつもへらへらとしているところ──も彼女の不安の種だった。私はごく稀に「自分の犯した過ちを自覚する事」に思考が近付きそうになる時、その最たるものを「Mに薬物を勧めた事」にすり替えようと努めた。
部屋の中はゴミで散乱し、鏡に映る私はありきたりな醜いジャンキーの見た目をしていた。Mの容姿だけがこの部屋でただ一つ美しい物だった。
そして冒頭に戻る。完全に精神を壊したMは自分の腕を切り落とそうとし、病院に運ばれた。電話越しの、事務的で淡々とした説明は殆ど理解出来なかったが、恐らく薬物使用者向けの施設に入れられるのだろう。彼女はいつ戻って来るのだろうか。もしかしたら一生戻って来ないのかも知れない。一生施設の中で美しいままなのかも知れない。脳が溶けていく。過去も未来も無い世界の中へ没入する。そこには何も無いのに、私は幸福を感じていた。今までで一番強い多幸感だった。
無職を救って下さい。