短編小説『ステュクス』

地下鉄の階段を上がりコンビニの前を通ると、またくだんの男がベンチに座り、煙草を吸っていた。一度は通り過ぎたが、思い直してすぐに引き返し、男に声を掛ける。細い白髪の掛かった耳には黒いイヤフォンが嵌め込まれており、わたしの声は聞こえていないらしく、彼の右膝を思い切り蹴り飛ばすと、はっとして顔を上げる。男は即座に下卑た笑みを浮かべ、イヤフォンを外しながら「久し振り」と言った。咄嗟に鞄で男の顔を殴打した。その勢いで、男が左手に持っていた煙草が地面に落下する。彼の背後にある窓ガラスに、後頭部のぶつかる鈍い音がし、黒縁の眼鏡が吹き飛ぶ。わたしより一回り小さい体がよろめいた隙に、更に顔を何度も蹴る。ベンチに置かれていた缶チューハイが倒れ、中身が漏れ出し、そこに歪んだ鼻梁から垂れた赤い血が混じる。窓ガラス越しに、店内の明かりがわたしの顔と男の背中とを照らしている。男が乾からびた手で抵抗するように顔を覆う。腹を蹴る。醜い悲鳴が上がる。柔らかい脂肪の感触。さすがに疲れたので、足を下ろして「さっさと帰れよ」と言うと、男は無言でよろよろと立ち上がって眼鏡を拾い、馬鹿みたいにこつこつと靴の音を鳴らしながら去って行った。

帰宅して服を脱ぎ、台所の冷たい床に寝転がりながら、500mlのペットボトルに口をつけぬるい水を飲む。碌に酒も飲んでいないにも拘らず、吐き気を催し、すぐに立ち上がって便器に顔をつっこみ、立て続けに３回吐く。酩酊しているわけでは無いので嗅覚も正常で、耐え難い悪臭でかえって不快感が増していく。消化しきれなかったえのき茸とわかめが右手に張り付いている。自分は何を食べたのだろうと思いつつ、それをトイレットペーパーで拭い取り、吐瀉物と一緒に流す。手を洗い視線を上げると、目が潤み、唇の赤く浮腫んだ不細工な顔が鏡に映っていた。まるでわたしが蹴られたみたいだった。
台所に戻り再び寝転がり、目を瞑る。球体の箱に閉じ込められ、四方八方に転がされているような気分だった。無意味な連想をしていたら、ふと高校生の頃を思い出した。昼休みによく、一人で暗い空き教室に忍び込んでいた。３つくらい隙間無く椅子を並べ、体を横たえる。カーテンの隙間から、白いばらの花が見える。廊下で女の子たちの笑っている声が聞こえる。ばらの花に向かって二度瞬きする。すべての花びらがゆっくりと舞い落ちる。左耳を椅子にあてて、うつ伏せになる。涙が溢れ落ちる。
目を開ける。吐き気は少しおさまった。雨が地面や窓を叩く音、風の強く吹く音がする。台風が近づいていると天気予報士が言っていた。わたしは昔から、このビュウビュウうるさい強風の音が、どうにも怖くて仕方ない。小さい頃に観た白雪姫の映画で、白雪姫が森で道に迷った時に、顔のある木々が自分に襲いかかってくるような妄想に取り憑かれるのだが、その木々が発する声がこんな音だったように記憶している。まったく違うかも知れないが。不安を打ち消すように虚空に向かって二度瞬きをする。もう誰からも打たれませんようにと祈る。足の先から火がつくのを感じる。