見出し画像

町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』感想

※2022年10月執筆。

猫のエッセイ(「エッセイって言葉がセンスないんじゃ。随筆と言ひ給へ」と本著に書いていた)を全部読んでしまったので読んでみたが、存外頭を使う内容だった。哲学書の類いはしばらく読めそうに無い。本著は以下のテーマに大別される。

・幼少期に読んだ本
・青年期に読んだ本
・歌詞について
・詩とは何か
・文体について
・“笑い”について
・小説家として影響を受けた小説家
・芸能・文学以外のカルチャーからの影響
・エッセイ/随筆について
・古典が好きな理由
・古典の現代語訳について
・これからの自分にとっての日本文学とは

全部は当てはめられないにしても、作家志望の人は上を真似て文章化してみると頭の中が整理されるんじゃないだろうか。とても分かりやすい構成だった。内容に関しても、私は商業小説家志望では無いにも拘らず(勿論なれたらこの上無く嬉しいが、元ジャンキー風俗嬢を拾ってくれるような出版社など現代には存在しないだろう)、本著を読んでいると発破を掛けられるような、「今日からこれ読んで、あれ読んで、こんなことを考え、あんな具合に書くようにしよう」という引き締まった気持ちにさせられた。よくnoteでも見掛ける「小説の書き方講座」のような記事はライトノベルやエンタメ小説向けのものが多く、純文学志向の人には向いていないように感じる。現役の純文学小説家(最近は専ら古典文学の口語訳に取り組んでおられるようだが)による「小説とは何ぞや」という話が知れるのは貴重だ。

また、本著はタイトルの示す通り、町田康氏の初の“がっつり”自分語り本でもある。パンク歌手時代があったことを仄めかしたり若かりし日の写真を見せびらかしたりといったことはしょっちゅうしているが(この本の表紙然り)、その詳細や当時考えていたこと、感じていたことについては確かにほとんど語られてこなかった。単に、私がそういう小説家、音楽家、芸術家、なんでもいいけど好きな作品の作者自身に強く興味を惹かれ、過去のインタビューを読み漁るというようなことをほとんどしない人間だから知らないだけかも知れないが。例えば好きなバンドであっても、バンドメンバーの名前を全員覚えていることは滅多に無い。まったく読まないわけでは無いが、インタビュー形式の文章というのがあまり得意では無いのというのもあるかも知れない。インタビューはインタビュアー側が多少内容に変更を加えているだろうし。その点、本著は昨年末から今年にかけて行っていた講義を元にした内容なので、インタビューと違って自由に、かつ系統立てて進行するので読みやすい。

パンク歌手時代どころか子供時代のことから話してくれて面白かったのだけど、特に笑ったのが中学生で入った部活がワンダーフォーゲル部だったということ。時代を感じる上に、あの町田町蔵さんがワンダーフォーゲルて。その説明がまた「なんそれ(by ZAZY)」というもので、氏によれば「登山部というのはひたすら目的を達成するために山に登るけれども、もっとロマンチックで、フラフラさまよう、意味わからんけどボヘミアン的な」部活だったらしい。
私は一応ドイツ文学専攻だったので、何となくワンダーフォーゲルについては習ったものの、連想されたのは結局、戸川純・上野耕路・太田螢一がやっていた(全員の名前を知っているバンドだ)ゲルニカというバンドの『夢の山嶽地帯』のMV。この映像と上の説明とが混ざり合い、かなり珍妙なイメージが頭の中に浮かんだ。

歌詞についての章は読み応えがあった。これまで蓄積されてきたもの(主に語彙力)と、流行歌や当時聴かれ始めたフォークやロックに対する疑問や疑念、そしてそこからパンクというジャンルを好むに至った理由が様々な角度から語られている。元も子もない書き方をしてしまえば、商業主義的音楽に対するカウンターなんだけれども、そもそもの説明の筋道や細かい表現が独特で、商業主義だからイヤというよりも(というかそうは書いていない)、とにかく「歌謡曲も、フォークも、ロックも、本当のことを言っていない」ということを繰り返し述べている。この章以外でも、「本当のこと」を書きたい、「本当のこと」を読みたい、知りたい、みんなにも書いて欲しいと何度も強調している。「本当のこと」の放つ輝きが、彼にとって最も美しい光なのかも知れない。

その後、「創作の背景──短編小説集『浄土』をめぐって」という章で、町田康にとっての「笑いとは何か」が語られるのだが、ここが概ね自分の考えていたことと同じだった。
まず、子供の頃から漫画が好きだったが、ストーリー重視の漫画よりギャグ漫画のほうが好きだったという点。わたしはこれに気付いたのが中学生の時分、『ピューと吹く!ジャガー』と出会ってからだったので少し遅かったかも知れない。お笑い芸人の漫才やコントをテレビで観ていた時は、一介の視聴者としてそこまで深く笑いについて考えていなかったが、絵や文字だけで笑いを表現する漫画という媒体に触れたことで、「笑いとは何か」までいかないけれども「自分はこういうものを面白いと感じる。それは何故なのか」ということは熟考するようになった。それは何なのかというと、先述の話題と重なるが、「本当のことは面白い」ということである。“普通だったら”そんなこと言わないよねということを言ったり、“普通だったら”そんなことしないよねということをやっている人というのは、えてして面白い。もっとうまく説明してくれている箇所があるのでいくつか引用。

「おもしろいことってなんなの?」と考えたときに、おもしろいことをやるためには、変な領域にいる人が言うわけだけど、その領域にいる人はそれを変だと思っていないわけです。それは真面目に言うているわけです。笑わそうという意志がないわけです、その人には。

おもしろいことというのはこの世の真実であらねばならないんです。つまり、この世の真実こそがおもしろいんです。(…)つまりそれは、だからこそ、この世の真実であるからこそ、隠さねばならないことなんです。それを隠すのが建前であり、常識です。それを破壊するときに噴出するものを描くのが、僕は文学なんじゃないか、表現なんじゃないかと、こういうふうに思うわけです。

ふと思ったが、上に載せた『夢の山嶽地帯』の動画が「本当のことは面白い」を体現している。ワンダーフォーゲルを楽しむ戸川純と、アコーディオンを携えた上野耕路が山の中で出会う。上野耕路は「心底こんなことはしたくない」という態度と苦虫を噛み潰したような表情を微塵も隠さず出演している。初期の愛子様か?
“普通だったら”やりたくなくてもMV撮影も仕事の一環だし、人に見られるものだから最低限の“やっていますよ感”は取り繕うものだろう。しかし、上野耕路はそんな建前や常識を破壊している。だから思わず笑ってしまうし、少なくとも私は、こんなやる気に欠けた人が映っているMVは見たことが無い。

ところで、その章で町田康は笑いと笑いの持つ根源的な差別性についても言及しているのだが、ここは同意しかねる。断固反対というわけでは無い。自分の中で納得のいく解答が出ていないというのが正直なところだ。
常識から逸脱している人を面白いと思う時、どう取り繕っても「差別だ」と指摘されてしまったら否定することは非常に難しい。かといって、必ずしもその人の人権を侵害したり人格を否定しようと意図しているわけでは無い。われわれは、他の人間にとって他人であるのだから、言動なり性格なり容姿なり、絶対にどこか違うところが存在する。例えば、基本的には常識的であっても今時珍しいコテコテの大阪弁を使っているとか、実は親がヤクザの幹部だとか、幼稚園の頃から同じ髪型をしているとか、歯の数が人より多いとか。その“違い”は明確に存在しているもので、「本当のこと」である。そこを無視せずに面白いと思うこと、そして思われること、「おまえのここが変で、面白くて、良い」と認め合うことは不可能では無い。そういうふうには考える。町田康の笑いの思想と重なる部分があるのかは分からないが。面白い本でした(唐突な締め方)。


この記事が参加している募集

読書感想文

無職を救って下さい。