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ベルリオーズの古典性?

 先日のディエスイレの引用の話で、幻想交響曲について「さらには唐突に長調に転じてどんちゃん騒ぎで集結するパロディ性までもベルリオーズは先駆けて表現しました」と書いたのですが、このくだり別の見方も可能です。古典的形式感に基づいてきっちり定型的に長調へ転じて終わらせた。ブルックナーの交響曲第八番の初稿の第1楽章のコーダが好例です。
 ベルリオーズの幻想交響曲は改めて見直してみるとその構成形式面では相当に古典的に思えます。第1楽章は序奏(ハ短調)付きで急速楽章(ハ長調)、ソナタ形式で提示部反復あり。第2楽章は舞踏曲(ワルツ、イ長調)、第3楽章は緩徐楽章(ヘ長調)。第4楽章こそ異色な行進曲調(ト短調)ですが提示部反復ありのソナタ形式感が維持されています。第5楽章は長めの序奏にロンド形式のフィナーレ(ハ長調)と解せます。調性の配置も極めて古典的と言えそうです。
 ピエール・ブーレーズが1967年にロンドン交響楽団と録音は、幻想交響曲とともに初めて「レリオ」を対にして世に出されました。奇しくも同年録音のミュンシュ指揮パリ管弦楽団盤が絶対的評価を受けている時代に、ブーレーズの演奏は彼が思う標題性よりも「古典的」交響曲としての姿が強調されているように感じます。第4、第5楽章は遅めのテンポが維持され、通常の演奏なら煽るような場面が全く動きません。第4楽章の反復を実施していたような気がしましたが今回聞き直して間違いでした(初めて実行したのはコリン・デイヴィスだったか)。そういう言わば超主知的な幻想交響曲に、異形の独白劇「レリオ」が組み合わされるコントラストが強烈で、一対の曲として仕上げる無理矢理さ加減も感じさせるアルバムでした。そういえば次の年1968年に録音のベートーヴェン「第五交響曲」も良くも悪くも話題になりました。ここまでは昔のコテンセイでお願いします。
 「古典的」ってなんだって話なんですが、使う前提が変化するので、どっか断絶があると思うんす。今から考えるとこの頃のブーレーズさんにはまだ少なからず所謂進歩史観が残ってて、後から来ん方が優れたものの筈、的な枠組みから抜けれてない(個人の感想です)。
 日本ではしかっめっつらしい決まったテンポで粛々と、日本の伝統音楽なみの…古典的という言葉が否定的に使われるのが普通だったんすよ。
 脱線するけどブーレーズさんはベルリオーズの悪口が多い。私は基本ベルリオーズの曲どれも好きなんで反対に回るけどブーレーズさんの曲も好きす。
 で、も一つブーレーズさんが嫌ったピリオド・アプローチの時代になってしまいます。ハイドンからモーツァルト、さらにはベートーヴェンまで、古典的フォルムのまま溢れるようなヴァイタリティーが表現し得ることをアーノンクールらが先頭に立って証明、実践し始めました。それによって以降、「古典的」っていう言葉には全く違うニュアンス、ポジティブさが加わったんだと思います。パラドックスですけどむしろ新しいって。
 それにならって、ベルリオーズが大好きなんだろうエリオット・ガーディナーが熱を込めて、ロマンチックで革命的なピリオドオーケストラで数々の録音を開始、颯爽としたテンポで反復は全て履行、古典性と革新性の両立を志向していたと思います。
 私はガーディナーのリヨン劇場での仕事には本当に多大な恩恵を受けており、シャブリエ「お星さま」メサジェ「フォルチュニオ」オッフェンバック「山賊たち」は、ミシェル・プラッソンとともに私の音楽趣味を決定づけました。
 ただこれらのレパートリーではちょうどよく長所ですらあった音の軽さ、薄さがベルリオーズではどうも。結果一本調子になりがちで「トロイの人々」「ベンべヌート・チェッリーニ」の映像作品はともかく、他は物足りなく感じてしまう(個人の感想です)。新旧楽器の軋みが魅力のピリオド・アプローチという点ではさすがに後追いのレ・シエクルが鮮烈だった。個人的趣味でしかないがやっぱりインバルは画期的だったし、匠なシルヴァン・カンブルランであったり、ジョン・ネルソンが実は本当に素晴らしいので、私にとってガーディナーの偉業が霞んでしまった気がします。「ファウストの劫罰」は同じリヨンでもケント・ナガノとのコンビの方が私にとっては好ましい。
 シベリウスの回同様、今回も好き嫌いの話だけでお開きにしますんけど、いま一番の幻想交響曲オススメはもちろん表紙のです。


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