本因坊算砂

永禄2(1559)年-元和9(1623)年

  生国は京都で舞楽宗家・加納與助の子として生まれる。名は與三郎といった。8歳のときに叔父の寂光寺開山・日淵に弟子入りする。法名は日海。師の日淵は顕本法華宗の高僧で、安土宗論に参加したことでも知られる。学問・仏教を修めることが目的だったと考えられる。

 どのような経緯でかは不明であるが、日海は囲碁でも才能をみせて仙也に師事して腕を磨いた。仙也は当時の第一人者として知られているが、堺出身であることぐらいで詳細はわからない。この時期の碁打ち衆は京や堺出身の人物が多い。都周辺のインテリ層に囲碁はかなり普及しており、その中から専門家と呼べるほどの水準に達する打ち手が生じ始めていたと想像される。

 

 日海はいつしか技量随一と認められる打ち手になった。

 天正6(1578)年にはその名声が織田信長にも聞こえ、引見の機会を得た。日海の技量に驚いた信長が「そちはまことの名人なり」と称賛されたという逸話が残っている。これが囲碁将棋の最強者を「名人」と称することになった起因となったとされる。ただし天正6年時の日海は20歳であり、その若さで第一人者の地位を確立できていたかは不明である。

 信長は日海を中心として碁打ち衆を度々招き碁会を開いたようだ。本能寺の変前夜にも日海は利玄を相手に信長御前で対局している。この対局で三コウが生じたという伝説もあるが、それを裏付けるものは残っていない。

 

 豊臣秀吉がどの程度後に関心があったかは不明であるが、天正16(1588)年に当代一流の打ち手を召し出して対局を行わせている。このときも日海が優勝し、二十人扶持を与えられたと記録されている。信長に続いて秀吉政権下でも一定の地歩を築くことに成功したようだ。

  秀吉の次の覇者となった徳川家康には碁の逸話は多い。

 そもそも家康の女婿・奥平信昌が日海の門人になり、はやくも天正15(1587)年には信昌に連れられて駿府を訪れている。

 家康が江戸幕府を開くと、日海は江戸に招かれた。慶長13(1608)年には大橋宗桂(のちの将棋所・名人)との将棋平手局が残されている。(日海は将棋も最強クラスだった)慶長16(1611)年には僧としての最高位「法印」に叙せられた。さらに翌慶長17(1612)年、幕府から碁打ち衆・将棋衆8名に俸禄が与えられた。これが囲碁将棋の家元制度の始まりとされ、日海は利玄・宗桂とともに五十石十人扶持を与えられた。家元や段位が制度として確立していなかった時期なので不明な点が多いが、日海が名人・碁所として碁界の頂点にあったことは間違いが無いようである。将棋所ももっていて、それを大橋宗桂に譲ったとする説もある。日海がいつから「本因坊」を名乗ったか不明であるが、その由来は寂光寺の塔頭である。また算砂を名乗った時期も定かではない。ただ名人碁所になったころには「本因坊算砂」を名乗っていたのではないかと思われる。

※そもそも日海の師で叔父の日淵が本因坊を名乗っていたという話も残っている。

 元和9(1623)年5月16日没。碁所を弟子の中村道碩に譲り、幼年であった跡取り・算悦の後見を託した。(算悦幼年のため、ここで本因坊家は一時断絶の扱いになったともされる)辞世の句が有名である。「碁なりせば コウなと打ちて 生くべきに 死にばかりは 手もなかりけり」

 算砂は、信長・秀吉・家康の権力者3代に使えて囲碁の社会的地位の向上に大きな貢献をした。とくに家元制度の確立は、競技レベルの向上に与えた影響は計り知れない。

  算砂の遺譜は32局。すべて利玄(利玄坊)との対局である。

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