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森の家

私はある国の、森が開けた場所にある小さな小さな町に住んでいる。この町でものを売って生計を立てていたのだが、少しずつ生活は厳しくなり、この森を抜けて少し人の多い街に出て、ものを売ろうということになった。ほとんど毎日通ることになった森の中に1軒の平屋の家があった。森の雰囲気によく合っている家、というよりごく普通の森の家だった。

ごく普通の外観の家だが特徴的なところがひとつあった。それは通るたび決まっていつも同じ曲が流れていることだった。のちに分かったことだが、24時間いつなんどきもその曲を流しているらしい(正気とは思えない)。その曲は森には似つかわしくない、ロックバンドの曲だった。私は特に音楽に詳しくはないが知らないバンドの曲だった。見た目に何の特徴もない家というのもあって通る度に同じ曲が流れていることだけがとても印象に残った。

気にかかってはいたが、そこの住人を見たことがなかったし、わざわざチャイムを鳴らしてなぜいつも同じ曲を流しているんですか、なんて聞くような大きな疑問でもなかった。好きだからかけているという答え以外の理由もあるまい。

だが、機は突然訪れた。その家の住人が外で何か作業をしているではないか。私は降って湧いた機会に緊張しながらも声をかけた。この曲はとてもいいですね、お好きなんですか、私はよくこの道を通るのですが毎回この曲がかかっていることが気になっていました、と。すると住人はそうでしたか、この曲は私が本当に大好きな曲なんです。本当に大好きでこの曲を24時間いつなんどきも流しているんです、それでも全く飽きるなんてことはなくずっと好きなんです。と言った。それから妙に会話は弾み、曲の話だけでなく色々な話をした。その日別れたあとも私が家の近くの道を通る度会話するような親しい仲になった。そのような仲になり、曲のことは2人の間でも、自分の中でも一番大きな話題でもなくなっていった。

そして初めに話しかけたあの日から5年が経とうとしていたある日、その日もいつものようにその森の家の近くを通ろうとしていた。やがて私は困惑した。あのいつも流れている曲とは違う、別の曲が流れている。最低でも私が出会ってから5年もの間いつなんどきも流れていたあの曲が流れていない。私は急ぎ足でその森の家へ向かい、チャイムを鳴らした。家の主はすぐに出てきた。どうしたんだ、血相を変えて、と彼は言った。私はほとんど怒るように曲のことを彼に問うた。すると彼はあっけらかんと、新しく良い曲を見つけたからこれからはそれを流そうと思ったんだ、良い曲だろうと言った。その日何があったかを言ってしまえば結果として強い口論になった。彼のことを酷く罵ったと思う。今思えばあそこまで血を昇らせて人に怒りを見せたのは最初で最後かもしれない。しかし確かに私は怒っていた。悲しくて怒っていた。

彼とはその日以来会うことはなくなった。森を抜けるのも別の道を使い、会うことのないようにした。数年後私は別の町へ移り住むことになった。いつからか私は、彼は死んだのだと思うようになった。彼を思い返すこともときどきあったが、妙な感覚だった。思い出し、あの日の口論をくだらない喧嘩だとも思ったが、私の知らないあのロックバンドのあの曲が流れなくなったあの出来事は、私にとって、彼との関係の全てを、いや人に対する心の全てを失ったような感覚だった。