他者と分かり合えないなら、せめて考えを示すのだ。そして自分の領分を守るのだ。

他者とは分かり合えない存在と同義である。
他人は自分の経験、自分の考え、自分にとっての言葉の意味をどうしてなのか理解してくれないが、自分にとっても、他者の語る身体的精神的な苦痛とか感情とか論理とか言葉の使い方が理解出来ない、という時もあり、
すなわち相手が理解してくれないのはお互い様なのだ。
人間は何も繋がっていない、何も他者と共有出来ない、自分の脳の中の閉じた世界しか知覚する事は出来ない。だから、人に人の痛みは分からない。人は他者の視点を持ち得ない。その事に22歳で気づいた時、僕は心底傷ついたものだ。それ以来、人間への、世界への失望、絶望の直中で僕は死ねないからというだけで生きている。
しかし、それを克服する方法が今の人類に無いなら、結局の所、人がこの不条理な世界の仕組みに対して出来ることは、
「これが自分のやり方だ」
と、自分の考えを表明することに結局は尽きるのだろう。
相手が分かってくれそうなら、手を尽くし言葉を尽くして説得する。
分かってくれそうに無いなら、せめてそいつの関与を最小限に排除して自分の領分を守るしか無いのだろう。

 自分の事を何も見てない癖に、勝手に期待したり、投資の対象などとのたまったり見限ったり、平気で地雷を踏み抜いて来たくせに何が悲しいんだか知らねぇけどよとか言ってのけたり、親のそんな在り方に傷つき、悲劇に浸り、自分が被害者であるという自認を持って生きる事は子供のうちは許されるだろう。
そして、自分を分かってくれる誰かと出会える日を夢見る事も。
でも、それはきっと、社会に身一つで投げ出された時通用しなくなるのだろう。
社会に生きている人々に、君の事を全人的に分かってあげて、君の気持ちをいつも尊重する義務は無いからだ。
そこでは誰もが、自分の事は自己責任という平等な立場の原子に分かれている。
 
故に、我々は自分の事を示すしかない。他人に言葉を、行動を示すとき我々は初めて何者かとして存在を認められるのだろう。

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