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”違う”ということ

昨日、「グリーンブック」という映画を観た。映画の内容は、才能のある黒人ピアニストと、その付添人である白人ドライバーがコンサートのためにアメリカ南部を横断するという物語である。何も考えずに選んだ映画だったため、最初はそこまでのめり込むように観ていなかったが(序盤に一瞬寝落ちしそうになった)、映画終了後には”差別”について考えさせられるものが多々あった。

ところで、僕は海外には何度か足を運んだことがあるものの、長期間滞在をしたことがない。そもそも日本で生まれ育ち、九州という、ある意味閉鎖的な場所にいた僕にとってはこれまでもいわゆる”差別”というものを身近に感じることは少なかった。小学校や中学校での道徳教育では、もちろん差別をテーマにした授業はあったが、その表層的な部分をなぞるに過ぎなかったと思う。差別をしちゃだめですよ、かわいそうでしょ?そんな言葉を何度も耳にした。そうした言葉を耳にする度に、でも、自分は差別をしていないから、大丈夫でしょ。そう思っていた。

しかし、この映画から自分自身のこれまでの考えの浅さを気づかされた。この映画の恐ろしいといえるところは、差別をしている人間が、差別をしていることについてほとんど無自覚、あるいは当たり前のように感じ、振る舞っていることである。映画では、黒人ピアニストがショーにVIPとして呼ばれているにもかかわらず、劇場内のトイレを使おうとした際に白人の主催者から、「白人専用のトイレだから」と、外の、しかも、いかにも悪臭漂う清潔感のない(トイレと呼ぶことができるかすらも分からないような)場所を使うよう指示されていた。主催者が、”ゲストとして呼んだVIPに対して”である。それも平然と。

多くの人は、自分がVIPとして呼んだ人にそのような対応をとることはありえないと言うだろう。だが、この映画は実話をもとに作られたものである。本当に僕たちが考えている当たり前は、”当たり前”なのだろうか。

改めて、いい映画を観ることができたと思う。この映画で感じたことは、才能のある人間が不当な扱いを受けることへの不条理への強烈な違和感と、慣習の恐ろしさである。この映画を観て感じた違和感は、発展途上国という言葉を耳にしたときの、あのなんともいえない後味の悪さと似ているかもしれない。今一度、自分が歪んだ当たり前を持っていないかを考え直す必要がある。

これまで表層的な理解しかできていなかった差別について、考えを深めるきっかけができた。日本でも人種差別以外に、多くの差別が残るといわれている。「女にはできない」というような、女性差別(女性蔑視)は典型例だろう。

違うという言葉すら、本当に正しいのかは疑問が残るが、
広く、”違う”ということについてより理解を深めていきたい。

Nao

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