見出し画像

私の針仕事それからずーと

長女が6歳になる頃、
何度目かの引越しをした。
同じ岡山でも広島や鳥取に近い北部に
移る事になった。

そこは他所から移り住んだ家族ばかりの村で
山を切り開いて農業や畜産業を営んでいる方々が多かった。

私達家族も小さいながらも家を建て
その後27年間そこで暮らす事となるのだが…

緑豊かな自然の中…と云うより
欝蒼とした自然の中に
ポツンと家が立ってる様な感じもあったが
家の向かいには道路を挟んで
牧草地が広がっていたのが救いだった

すぐ側に山が迫っている
家の裏側とは対照的に
開放感があったからだ

とは言っても山の中。
アナグマに猪🐗たまにキツネ🦊が
家の周りに出没した。
動物達の棲家に私達の方がお邪魔している
そんな感じの環境だった。

野菜を作っている家では
かなり被害も出ていたので
我が家はあっさり諦めて
植えるのは花や木だけにしていた。

春にはウグイスの谷渡がすぐ側で聞けたし
夏にはカッコーが鳴き
キツツキの木を突く音が聞こえた
朝は小鳥の声で目覚め
夜は山ふくろうが鳴いていた。

初夏にはマムシやスズメバチに用心した
雨の日に留守をすると
浴室の小さな穴から台所に向かって一直線に
蟻が列を成している事もあったし
カメムシが大量発生して何処からでも入り込んで来るし
アオダイショウが浴室に入り込んだ事もあった

動物や虫たちからしたら
私達の方がよそ者なんだから仕方ない

私はそんな環境をとても気に入っていた
子供達には不便な思いをさせたが
下界と隔離された様なこの家は
静かに創作活動をするのに
もってこいの場所だった

長女が小学校に通う頃から
地元の方々ともお付き合いが始まる

殆どが3〜4世代同居の家庭が多くて、
皆働き者だった
若い夫婦は外に働きに出て、
老夫婦は子守や畑仕事、
さらに上の長老も何らかの役割を持っている様だった

区長さんがいて議員がいて
青年団に消防団、愛育委員に婦人会etc
津々浦々まできっちり組織されていて
少々窮屈に感じた

地元で波風立てずに
安定した生活を送ろうとしている人達からは
奇妙な目で見られる事も多く、
「何故わざわざ都会から不便な生活を選んで来たのか?」
と質問されたものだ

違和感を感じながらも
何とか地元に馴染む様に努力した
そして色んな仕事をしながらも
パッチワークを楽しんでいたので
手作りのバッグ👜を参観日などに下げて行くと
関心を示すママさん達が現れる様になり
たまに集会場などで教えたりする様になった

この時はパッチワークで
生計を立てるなんて無理だと思っていたが
好きな事、得意な事を仕事にして生きたい❣️
という想いが徐々に膨らんで、
当時務めていた仕事を辞め
本腰を入れてパッチワークで生きる道を模索し始めた

地元のお年寄りからは、
「そんなもんで喰える訳がねえ」
と陰口を言われ
生徒さんのご主人からは
「わざわざ1枚の布を切り刻んで又繋ぐとは何て無駄な事をするんじゃ?」
と言われたりしたものの
その悔しさが逆にバネになり奮起する事ができたと思っている

やってみたらその楽しさはわかる筈
という確信があったし
前へ進むしか無かったから強くなれたのかもしれない

15年も続けていると
パッチワークをしていなければ
絶対に出逢わなかった
沢山の人に出逢えたし
友人も出来たから
あの時思い切って決断して
本当に良かったと思っている

好きな事に夢中になっている時は
自分を好きで居られる
そんな時は周りが何を言おうが
全く気にならなくなっていた
私は私で良いんだと居直れる様になっていた

気付いたら閉鎖的な村社会の中にも
自分の居場所を見つける事が出来ていた。

次は支えてくれた友人の事を書こうかな
又明日

サポートしてくださった投げ銭は、制作費用に充てさせていただきます◎