4/29 寝タバコ・言葉の檻・祈り

やはりタバコはうまい。それも、寝タバコがうまい。外で布団と枕をしいてごろんとする。そうやって脱力して外の音を聴き空を見ながら吸うタバコがうまい。ダメになった時はダメな儀式をやろう。俺は生まれた時から死ぬまでずっとダメだ。



文章の質が変わってきたのを感じる。誰かに「詭弁」と言われて「確かに俺の言葉は詭弁だ」と思ったことがある。一人称と応答の義務が詭弁を加速する。俺は誰にも答える義務はないし、好かれる必要もないし、俺は俺だ。僕じゃない、私でもない、おいらでもワイでもない。俺だ。いまの言葉は俺の言葉だ。僕の言葉じゃない。僕は抑圧の人格。俺はただの俺だ。だから俺の書く文章は僕とは違う。特に意味もなく、誰の役に立つわけでもなく、ただ俺を書く。心地よい。



久しぶりに窓を開けた。ベランダで吸った寝タバコのせいかな。ダメな儀式も役に立つことがあるもんだ。いつかは拒絶していた外の音が敵でなくなっている。タケゾウの影響かもしれない。陶芸がやりたい。木を掘りたい。武道をやりたい。自分が嫌だった道が見えてきた。働くなんてまっぴらごめんだ。何の役にも立たないものをつくり、何の役にも立たないことをし、命を考える。それでもやはりそれは社会のおかげなんだけど、俺はそこにいたくない。大きな流れである社会からは離れていたい。もっとゆるやかな流れの中に存在していたい。そこで旅人を待つんだ。それが話を聞くってことなんだと思う。もう十分に俺は社会に参加した。成功者の言葉に興味はなく、苦しんでいる人の言葉に興味がある。俺は通過地点。鎧を外して焚き火を囲んで飯を食おう。



陶芸がやりたい。けど、人の世話になるのはやはりめんどうなので、代案として、いや同じくらい興味があることとして木彫りをやろうと思っている。彫刻刀を買わないとな。スマホ、散歩。疲れない程度にひとりでひたすら手を動かすことが向いている。孤独に慣れている。孤独の心地よさを知っている。才を金に変換するために右往左往する人生は嫌だが、才をひたすら積み上げて何にもならぬゴミを出すだけの人生なら歓迎する。だから、俺には彫刻とか陶芸とかが向いている気がしている。どちらも少し骨が折れそうだけど、文章を書くのと同じくらいの強度と頻度でなら続けられるような気がする。



空気に縛られるのは、別に日本人に限ったことじゃない。空気は内側にあるものを外部に投影する行為でもある。そんなルールはない場所で勝手に空気を読んである振る舞いをするのは、空気的だ。それが法として存在していたとしても、やはり俺にはそれが空気のように思える。

「言葉の檻」という言葉がある。武蔵は「天下無双」にとらわれた。不安を埋めるための怒り、怒りは完璧な世界を目指し、それがやがてそれを象徴する言葉になり、それが世界の流れをつくる。社会はそれを投影しやすい。俺も檻に囚われている。僕という檻、義務という檻、祈りという檻。祈りだけは自ら進んで入った檻だった。何もわからないまま、祈りを探した。

祈りは心地よかった。しかし、これまでの祈りは埋め合わせに過ぎなかった。俺も知らずのうちに天下無双のような何かを目指していた。敵がいない状態を祈りの中に見出し、それを常に保とうとした。実はその欲望こそが埋め合わせであって、祈りからはほど遠いものだった。敵は俺の中にいた。何も学ばず、何もせず、ただこうありたいと願うボンクラの祈りなど届くはずがない。そして俺はそれが届いてはならないと思う。そんなものが届いてしまう世界はくだらない。

敵には近づかないようにすること。敵ではないことに気づくためによく観察して溶け合うこと。

檻に閉ざされている人を最近よく発見する。仕方のないことだよな。社会ってそういうものだから。規格外のネジは使われることはない。暴力的に、必要に合わせて規格化されたネジになることを求められる。それしか生きる道がないと思って生きている。だからその暴力に屈するしかない。特に抵抗なく自らの意思で規格になりすますことのできる人はたぶんそんなに多くはない。

空気の檻があり、言葉の檻がある。何を感じても一定の言葉に縛られる。自由な思考を獲得するに至る人間になれる人は稀な気がする。行動は空気が縛り、感じ方は言葉が縛る。そうやってその檻の中から少し出られた時に自由を感じる個体が社会的な人間なのだろうか。だんだんよくわからなくなってきた。俺は、檻から出たい。いまの俺は檻から出てただ感じるようにしている。だから言葉が出てくる。檻を使わざるを得ないけど、言葉以前の情報を元に言葉を紡ごうとしているから、以前よりはマシなはずだ。

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