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愛と形骸

「自分が表現したいものはあるか?あるとしたらそれは何か?」

この問いに答えるべく文章を書いてなんとなく整理していった結果、直感的に思った通り、やはり「愛」になった。

愛以外に表現したいものはない。というか、俺には世界も人も見えないし、他人の存在しない世界に価値を感じないので、人に向かうしかない。自分が満たされるためには他人に向かうしかない。だから、愛しかない。



使い古された陳腐なセリフかもしれない。しかし、俺はずっとそうやって他人の言葉を咀嚼できないまま反抗期の子供のように生きてきたので、この結論に至ったことがまるで自分の発明であるかのように新しいものに感じる。

愛しかない。だって、俺の興味はほとんど他人にしかないのだもの。あまり世界に興味がないのだもの。他人のレンズを通してようやく自分の興味として何かを見れるようになるんだもの。これまでの人生で俺だけの興味なんてどこにもなかった。だから、愛しかない。



他人がいなくなって何不自由なく、既存の技術や、なんなら未来の技術ですらも自由に使って暮らせる世界で暮らせたとして、その世界にどんな価値があるのだろう。その世界でどんな充足を得られるだろう。

好奇心は芽生えるのだろうか。何を知っても満たされない気がする。それこそSo what?以外に何も感想が浮かんでこない世界になる気がする。

何かを伝えたいと思える相手がいないのに、世界にひとりぼっちで世界一の自由を手に入れて何になるのだろう。

というか、自由が欲しいのは他人がいるからだ。他人がいなければ俺も世界も存在しないのと同じだ。だから、愛しかない。愛以外にない。



みな生まれた時から自分ひとりでは生きてはこれなかった。少なからず愛を受け取り生きてきた。俺は愛をたくさん受け取ったのだと思う。そして、愛を送ってきたのだと思う。

愛を送れないと苦しい。愛を受け取ってくれる人が欲しい。愛を送ってくれる人が欲しい。それがあれば世界が見えなくてもどうにかなる気がする。だから、愛しかない。



俺には世界が見えない。他人が見えない。そして、自分すらも見えない。何も見えない。

だが、かろうじて他人と関わることで、他人が見えたような気がすることがある。他人が見えたような気になるということは、他人そのものは永遠に見えないわけだから、つまりカンチガイかもしれないけれど自分が少しは見えるようになるということだ。見えたような気にはなれるということだ。

言葉に意味があるのは他人がいるからだ。つまり、他人がいなければ意味は存在しなかった。だから、生きている意味は他人がいるからあるのである。だから、愛しかない。



どんなに飛躍した論理でもいい。そんなことはどうでもいい。俺には愛しかないのだと思う。

目が見えない世界で頼りになるのは温度だ。手触りだ。身体の感覚だ。それを与えてくれるのは他人だ。だから、愛しかない。



愛に向かう以外に、自分や世界を見えるようにはなる方法はない。世界を見たいわけじゃない。自分が見たいわけでもない。でも、たぶん、強いていえば他人を見たい。

他人を見るためには自分と世界が必要で、だから結果的に自分と世界に少しずつ意味が与えられていく。そうやって俺はようやく生きられるのだろう。だから、愛しかない。



愛のない世界は虚構ですらない。無ですらない。なんでもない。よくわからないもやもやだ。そのよくわからないもやもやは永遠に言葉になることはない。本当にすべてにおいて何がわからないのかすらわからないまま死んでいくとしたら、それはあったわけでもなく、なかったわけでもなく、ただそうなっただけである。「ただそうなっただけである」という結論すら得ることなく、消えたという言葉すらもなく、死ぬ。死ぬということがなんなのかわからず死ぬ。そんなことはあり得ないけど、あり得るのだとしたらそうなるはずだ。



他人のいない世界は無意味だ。文字通り、無意味だ。無価値でもある。少なくとも俺にとっては。

愛に向かうしかない。他人に向かうしかない。俺は世界を見たいわけでもなければ、自分を見たいわけでもなく、本当は他人が見たいわけでもないのだ。

ただ、ひたすらに愛が欲しいのだと思う。



「愛とは何か?」という問いには答えない。ただ、愛なんだと思う。言い切ってしまうことにする。よくわからないままに断言してしまうことにする。

感情はいつだって正しい。間違えるのは自分だ。理性なのか悟性なのか、なんかそういうやつだ。

俺はこの結論に論理的思考を持ち合わせていないが、感情的信仰を持ち合わせている。論理は知らん。とにかく、愛しかない。



俺は愛する人とキャッチボールをするために生まれてきたのだと思う。ずっとそれだけをやっていればよかったのだと思う。ずっとそれだけをやっていればよかったと思うために、これまでのすべてがあったのだと思う。

愛がうまく手に入らないから何もかもに絶望していたのだと思う。だから、そこにたどりついたって何にもならないものを追い求めていたのだと思う。

ただ、愛する人とキャッチボールができるから、自他や世界の輪郭が見えてくるのだと思う。

俺の友人のクリエイターにあるような目や感性は俺にはない。何も覚えていられない。愛以外のすべてがどうでもいい。

どうでもいいというのは言い過ぎかもしれないけれど、俺は五感を手放してしまった。目と耳と鼻と舌で感じる食感以外の何かを手放してしまった。かろうじて残ったのは身体感覚だった。

良き身体感覚には、本能的に身体が必要としている何かをやれば到達できる。いろんなことをやってきたけれど、身体的な健康をひとりで追い求めても何かが足りなかった。その足りなかったものは愛なんだと思う。



愛だけはいつまでも覚えている。身体が欲するから、愛だけは覚えていられる。ボールのカタチや大きさや質感や材料は死ぬまで覚えられないかもしれないけれど、愛する人とキャッチボールをしたいことだけはいつまでもきっと覚えている。

それでいいし、それしかない。

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