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1/3 不完全でよくわからないまま前に進め

抱負を書いた。一ヶ月間、それなりに考え抜いたつもりだったが、年が明けても更新されつづけている。

そんな雰囲気を感じたので、年末あたりに「僕は法をつくりたいんだ」と認識した。なので、写経という方法をとり、毎日法を書き映し、どんどん法を更新し続けて行く。その行為によって、自身の欲望や意思みたいなものを保存し、思い出していく。これが僕の2023年の祈りなのだろうと思う。



他人に見せる抱負は、方便的に、そのつくりあげた法の一部を抜粋して、他人が利益を享受できそうなわかりやすいカタチで示すのがいいのだろうなと思う。

なので、方便的な抱負をいくつか抜粋・編集して、記事にしようと思っている。



法をつくるなどと言ったが、そんなこと簡単にできるわけがない。常に不完全な法であることだろうと思うし、どうやっても完璧にはならないと思う。

命題化した文章が問いを生む。本当にそれでいいのか。具体的に何をどうするのか。それはどういう目的でやっているのか。

こんなところまですべて写経していたら、時間がいくらあっても足りない。だから、写経は定型的な部分を中心として、その先に続く自由に書く文章を最小限におさえて(その時点で写経ではない気がするのだが)、次の日に自由な部分にまた違うことを書くことを許容する。

この自由な文章は、僕が問うてしまうし書きたくなってしまうからやりはじめたことなんだけど、定型文に向かいつつも、常に余白に何かを書き込める状態があるということが楽しいし、それが良いことな気がする。



とはいえ、この法をつくるという行為自体が神経症的で、僕の完璧主義的な部分をあらわしていると思うのだが、だからこそわからないことがおおかったり、その法が不完全であることに不安を覚える。

完璧なものを写経したいという思いが拭えない。そのために何か追加しなければ、何かを直さなければ、という気持ちになる。



だけど、たぶんそれでいいんだろうと思う。そして、こうやってそれでいいんだと認めてあげることが重要なんだと思う。

不完全な法に毎日向かいつづける。定型文を書いて、自分がありたい自分を思い出せる。

しかし、その不完全さを問うてしまう。

それでいい。


そうやって情報を統合していくことが、僕の欲望でもある。死ぬまで終わらない、内面世界の言葉による統合。言葉で世界をスッキリと規定できないことは不安だが、それが言葉というものだし、それが世界だ。


だから自分のためにこの言葉を考えた。

「不完全でよくわからないまま前に進め」


この言葉は、不完全な法の不安を吹っ切って、不完全な世界を不完全な自分のままに生きていくための言葉であり、その不完全さを楽しむための言葉である。

しかし、それでも毎日すこしずつ統合をこころみる。統合できた気がした時は、とてもうれしい、楽しい。ひとつの言葉に多くの意味を含ませられた時、そしてそれが自分の見ている世界を説明する言葉になった時、僕は満足感を得る。抱負の重複された意味の言葉達が統合されたとき、まさにそうだった。


矛盾や意味の重複などの不完全がすべてが消え去った法によって統治された世界、言葉でスッキリと説明できる世界、そういうものを目指しつつ、不完全なままの世界と自分を納得して生きていく。

たぶん僕はそういう場所を目指している。

よくわからないままとりあえずつっこもう。不完全でもいいから、とにかく最初の一手を打たなければ、局面は進まない。流れの中で順次やるべきことを考えていけばいいんだ。

そうだろ、アカギさん。

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