わりと日刊だらく[No.68]〜祈りの起源の問いに答える〜
今日の散文
祈りの起源の問いに答える
よくわからない人からよくわからない問いが飛んできたのですが、面白かったのでちゃんと答えてみました。
(問)祈りを始めたキッカケとして大きなものは何か?
※自分でもよくわかりませんでした。だから、理由を整理しながら書きました。なので長ったらしい前置きがあります。最後にまとめとしてその理由が書いてあります。
何年も前から漠然と「もう僕が僕の人生でできることは何もない。あとは祈るしかないのではないか」という想いがあり、しかしその頃は、何でそんなことを自分が思っていたのかも、祈りがどんな意味を持つものなのかも、何も知りませんでした。
今は何となくその時なぜ祈りを求めていたのかがわかります。絶望感がないまま楽しく生きる方法がわからなかったのです。その方法として、宗教者のように信仰と熱心に何かを願い想うその心の所作こそが必要で、それが今の自分に足りないものだと思っていたのです。あまりにも余裕がなすぎて実行はできませんでしたが。結果的にあの時の直感は正しかったですね。
さて、色んな精神的な問題を抱えていた(る)僕ですが、スラムに入ってから「解呪(認知の歪みを矯正し正しい状態に戻す)」を始めました(2021/6/1)。それが具体的にどういう方法なのかまったくわからない状態で。
最初は、スラム上で常日頃から交わされている文字ベースのコミュニケーションにおいて、僕が他者に対して一方的に感じている不快感の根源が何なのかということを探ることから始まりました。
結果としてそれは「自己嫌悪」が他者に投影されていたものだと気付きました。このことから「自分と他者の認知が曖昧になっているから、認知的に分離しなければならない」という認識が生まれました。
そしてそれが「自他の分離」の儀式を始めるキッカケとなります。
「自他の分離」を皮切りとして労働中に感じる不快を消そうとする試みはこの頃から始まります。(2021/8/31)
「自他の分離」の儀式をやった時だか、その数日後だかに、またあまり良くない精神状態になったのですが、その時に「不快を感じるのが嫌だからそれをどうにかしたい」いうことで、感覚をフラットに戻すための儀式を思いつきました。不快を消すという発想の元で始まった儀式、それが「フラット」の儀式です。
この「自他の分離」「フラット」の儀式がベースとなって始まったのが、僕の祈りです。このように元々は解呪のための儀式であり「祈り」という認識がありませんでした。
僕が祈りを思い出したキッカケは、プロ奢ラレヤーが繰り返しTwitterやnoteで使ってきたキーワード「祈り」でした。そのまんまですね。
あれは基本的には比喩的な表現として使っていましたが、自分がやっていることが極めて祈り的であるという事に気づき、祈りに興味を持ち始め、ついに祈りの本を購入し11/1から読み始めるに至りました。
一週間もしないうちに効果がどんどん現れてきて、感覚的に大きな変化が訪れます。それはものすごく心地よいものであったり、同時にものすごくつらいものでもありました(恐らく問題を沢山抱えている人ほど、祈り始めはその副作用によって苦しむことも大きいと思います)。
それに伴って自分の抱えている問題が浮き彫りになり、次第に「無意識化に抑圧された無数の感情が自分を常に圧迫し続けている」ことに気付きました。これが自分の認知の歪みの大元であるということにもこの時に気がつきました。
ここから加速的に色んな認知の歪みが矯正されていくことになります。
あまりにも呪いの数が多すぎて書ききれないような気がするのですが(というか多すぎて覚えてない)、例えば、直近で解呪したもので言えば「上昇志向的な意識による焦り(今すぐに結果を出さなければと思うことにより現在に集中できない)」「父親的な役割を他者に求めることによるある種の聖性・畏怖的な感情を他者に感じること(自分よりも知的な存在にその教育的な役割を求める)」などです。両方とも今の自分には必要のない呪いだったので、ほとんど完全に消去しました。日常生活の上でその姿を表すことが恐らくゼロになっています。
今わかる範囲で言えば、こんな感じでした。
今日の音楽
なんか最近これ貼った気がするけどまぁいいや
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